食えない夢の弁当

「役者なんて食えないぞ」

 依茉が演劇学校を受けると言うたび、父の征彦は同じことを言った。

「知ってる。だからアルバイトもする」

「途中で泣いて帰ってくる」

「帰らない」

「腹が減る」

「そこだけ心配なの?」

 会話はいつも、そこで切れた。

 征彦は弁当屋で働いていた。揚げ物の匂いを制服に染み込ませ、午前四時に家を出る。娘の台本には一度も目を通さなかった。居間で練習していても、台所から「風呂が沸いた」「声が大きい」としか言わない。

 試験前夜、依茉はついに言った。

「お父さんは、私が失敗すれば安心なんでしょ」

 征彦は包丁を止めた。何か言いかけたが、結局「明日は六時に起きろ」とだけ言った。

 翌朝、食卓に四段重ねの弁当箱が置かれていた。

「遠足じゃないんだけど」

「食えない夢を見に行くんだろ。多めにした」

 腹が立って、依茉は礼も言わず家を出た。

 試験会場の控室で蓋を開けると、一段目の卵焼きに小さな旗が立っていた。

〈第一幕 登場。背筋〉

 二段目の唐揚げには、

〈台詞を急ぐな。『もう知らない』の前で一呼吸〉

 三段目の海苔巻きには、

〈相手の目を見る。床に答えは落ちていない〉

 最後の段には、何も入っていなかった。代わりに折り畳んだ紙が一枚。

〈終幕。受かっても落ちても帰宅。夕飯あり〉

 余白には、依茉の課題台詞がびっしり書き写されていた。赤い丸や斜線は、毎晩こっそり聞いていた父が、息を継ぐ場所を考えた跡だった。

 依茉は控室の隅から電話をかけた。

「台本、読んでたの」

「弁当の注文票と似た紙が、たまたま机にあった」

「嘘。字、全部お父さんじゃん」

「……揚げ時間は三分半だ。面接には関係ない」

「どうして応援してるって言わないの」

 しばらく、油のはぜる音だけが聞こえた。

「応援したら、お前が俺のために受かろうとするだろ。自分のために行け」

 名前を呼ばれた。

 依茉は立ち上がり、空の四段目を抱えた。

「お父さん」

「なんだ」

「役者は食えないかもしれないけど」

「だから弁当を持たせた」

 依茉は笑って、泣くのをやめた。

 舞台中央へ出たとき、床には答えを探さなかった。顔を上げると、審査員の向こうに、油の匂いがする朝の台所が見えた。