駅前の白い靴
槙原千景は、駅前のベンチで白いパンプスを脱いでいた。
神前式の開始まで二十分。稲森弥生が息を切らして着くと、千景は足袋のように薄いストッキングのまま、発車案内を見上げていた。綿帽子はなく、髪には金色の水引が一本残っている。
「みんな、私を小田切さんって呼ぶの」
結婚すれば新郎の姓になる。書類も招待状もそう準備した。弥生にとっては、姓は住所と似たものだった。自分も三年前、迷わず変えた。銀行を回るのが面倒だったくらいで、名前が減ったとも増えたとも思わない。
千景は違った。仕事で初めて署名した図面も、祖母から届く年賀状も、全部「槙原千景」だった。設計事務所の入口には、自分で切り出したその四文字の表札まである。今朝、新郎の母が「今日から小田切家の人ね」と笑い、千景は笑い返せなかったという。
「でも、もう決めたことでしょ」
弥生は言ってから、白い靴の踵が赤く染まっているのを見た。千景は逃げるために走ったのではない。呼ばれても振り向けない名前から、一歩ずつ離れてきたのだ。
駅ビルの靴店は開店直後だった。弥生は千景を連れて入り、いちばん安いスニーカーを二足、棚から取った。
「私の分まで?」
「ヒールで追いかけてきたから、足が痛い」
試着用の鏡の前で、二人は並んで紐を結んだ。千景は黒、弥生は灰色。価値観を揃える必要はない。姓を変えて平気だった弥生と、変わる前に息ができなくなった千景は、それぞれの靴を履いたまま同じ出口を選べる。
ホームへ上がると、式場の方角から電話が続けて鳴った。千景は一件も取らなかった。弥生は自分の夫からの着信だけに出て、「無事。あとで説明する」と短く告げた。
電車が来る。千景は白いパンプスを片方ずつ紙袋へ入れ、弥生が袋の底を支えた。
「どこまで行く?」
「一駅。そこで考える」
弥生は定期券をタッチした。千景も続いた。改札の向こうで二人は同時に振り返り、駅員室へ式場名を伝えた。捜索で迷惑をかけないためだった。
それから、行き先の決まっていない上り電車に乗った。