魔王、半額の覇者
かつて七王国を震え上がらせた魔王ガルバゼンは、いま駅前スーパーの時計を見つめていた。
時刻、十九時二十八分。財布の中身、千百四十六円。目的は、総菜売り場の照り焼きチキンである。
「あと二分……半額の刻が来る」
黒い外套の下で、ガルバゼンは買い物かごを握り締めた。玉座を失ってから、彼はワンルームで暮らし、派遣倉庫で箱を積んでいる。世界征服より家賃更新のほうが恐ろしく、勇者の聖剣より電気料金の督促状のほうがよく刺さった。
総菜売り場には強敵がそろっていた。杖を操る老婦人三名、部活帰りの若き戦士、かごを二つ持つ主婦将軍。全員が、値引きシールを持つ店員の動きを追っている。
「退け、人間ども。これは余の晩餐だ」
小声で威圧したが、老婦人は一歩も動かない。
「若い人は働いて定価で買いなさい」
「余は千二百年生きている」
「なら年金があるでしょう」
「魔界の制度を日本へ持ち込むな!」
十九時三十分。店員がシールを貼り始めた。戦場が動く。
ガルバゼンはまず、二割引きのコロッケに手を伸ばすふりをした。主婦将軍がそちらへ反応した隙に、照り焼きへ転進。だが部活戦士の長い腕が先に伸びる。
「甘い!」
魔王は指先に闇の炎をともした。しかし店内放送が告げる。
『売り場での魔法、走行、商品の確保はご遠慮ください』
「対魔王規則だと?」
「先週も来てましたよね」と店員が言った。
ついに半額シールが照り焼きへ下りる。全員の手が伸びた。ガルバゼンは覚悟を決め、かごを差し出した――その瞬間、棚の下から小さな声がした。
「おじちゃん、それ、最後?」
幼い子が母親の袖をつかみ、照り焼きを見ていた。魔王は固まった。七王国なら奪えた。だが腹をすかせた子どもの前では、どうにも威厳が働かない。
「……持っていけ。余は慈悲深い」
子どもが礼を言うと、老婦人の一人が笑った。
「魔王さん、こっちの鯖みそも半額よ」
「余は魚を欲していない」
「骨に気をつければ、おいしいわよ」
「余を子ども扱いするな」
結局、ガルバゼンは鯖みそと三割引きの豆腐を買った。帰宅すると、使い魔二匹がちゃぶ台で待っていた。
「陛下、征服の成果は?」
「鯖だ」
「世界は?」
「今日は売り切れだ」
魔王は豆腐を半分に切り、使い魔へ分けた。狭い部屋に湯気が上がる。
翌日、スーパーの掲示板には新しい注意書きが貼られた。
『半額商品は譲り合ってお求めください。なお、闇の炎による威嚇は禁止します』
ガルバゼンはそれを読み、次こそ定価で買える身分に返り咲こうと固く誓った。世界征服ではなく、正社員登用を目指して。