魚屋の午後二時
商店街の魚屋には、午後二時になると白黒の猫が来る。
店主の岳志は「白足」と呼んでいるが、近所の子は「靴下」、惣菜屋の主人は「大将」と呼ぶ。誰の猫でもないので、名前だけが幾つもある。
白足は売り物を盗まない。店先の発泡箱から離れた場所に座り、魚を捌く岳志の手元を眺める。
「今日も見るだけか」
声をかけても瞬きするだけだ。
岳志は閉店前に出る切れ端を、決まった皿へ少し載せる。生ではなく、湯をかけて冷ましたもの。白足は急がず食べ、皿の縁まで舐めて帰る。
ある火曜日、二時を過ぎても来なかった。雨でも雪でも来る猫だった。
三時、四時。岳志は何度も商店街の入口を見る。心配して探しに行くほどの関係ではない、と自分に言い聞かせた。
閉店作業を始めた頃、段ボール箱を抱えた少女が来た。箱の中に白足がいる。前脚へ包帯が巻かれていた。
「自転車にぶつかりそうになって。病院は連れていきました」
怪我は軽いという。少女の家で数日預かるらしい。
岳志はその日の切れ端を加熱し、小さな容器へ入れて渡した。白足は箱から鼻だけ出し、鰹の匂いを嗅いだ。
一週間後、午後二時に白足は戻った。包帯は取れ、歩き方も普通だ。岳志はいつも通り手を動かし、特別な声をかけなかった。
ただ、その日の皿には鰹を一切れ多く載せた。
白足が食べ終えたあと、魚と湯気の匂いが午後の店先に残った。濡れた石畳へついた白い足跡は、商店街の角までゆっくり続いていた。
少女の名は比奈といい、白足を預かった間だけ「しらす」と呼んでいた。岳志がその話をすると、惣菜屋は大将、子どもたちは靴下と呼び、商店街に笑いが起きた。猫はどの名にも尾を一度振るだけだ。夏の午後、魚屋の床は打ち水で冷え、白足は定位置へ腹をつけた。岳志が鯵を捌く音に合わせ、目を細める。幾つ名前があっても、二時に来て、湯気の消えた一皿を食べる。その時間だけは、誰にも取り違えようがなかった。