鰤かまの片側

店の時計が十一時五十八分を指していた。僕が暖簾をくぐると、店主は片手に閉店札を持ったまま、もう片方の手で冷蔵ケースを示した。

「焼き物なら、鰤かまだけ」

「それでお願いします」

断られなかったことに安心して、僕は一番端の席へ座った。炭の上に鰤かまが置かれると、脂が落ちて、じゅっと青い火が上がった。皮が縮むぱちぱちという音に混じって、潮と焦げた醤油の匂いが漂う。店主が大根おろしを添えるころには、骨のくぼみに透明な脂が小さな池を作っていた。

昼に送った見積書は、桁が一つ違っていた。取引先からの返信に気づいたのは、上司が帰った後だ。明日の九時には先方との会議がある。訂正すれば、僕の確認不足が全員に知られる。黙っていれば、もっと大きな数字になって返ってくる。

帰りの電車では、会社を辞めた後の検索ばかりしていた。逃げる道だけは、指一本でいくらでも表示された。

箸を入れたが、鰤かまは思ったより食べにくかった。片側の身をほぐそうとすると、骨が邪魔をする。僕が何度も皿の上で向きを変えていると、店主が閉店札を脇へ置いた。

「片側ずつ食えばいい」

説明はなかった。

僕は皿を半回転させた。皮に近い身は香ばしく、内側は蒸されたように柔らかい。熱い脂に大根おろしの冷たさが混ざり、口の中でようやく一つの味になった。全部をきれいに取ろうとせず、見える身から箸を進めると、骨の形も少しずつ分かってきた。

スマートフォンを出し、送信予約を開く。宛先は取引先の担当者。件名に「見積書訂正のお願い」と入れ、本文の最初へ、こちらの誤りであることを書いた。上司への報告も同じ時刻に設定した。送信は明朝七時半。会議より前に、少なくとも自分の側から皿を返す。

金額の問題は残っている。怒られる声まで想像できた。それでも、退職情報のタブは閉じた。

最後に頬の近くの身をすくうと、そこだけまだ熱かった。塩気のあとから脂の甘さが広がり、骨の白さが、空になった皿の上に静かに残った。