鳴らなかったファの音
母が施設へ移ることになり、兄妹は実家のピアノを処分するために集まった。
蓋を開けると、黄ばんだ鍵盤の中央だけ、わずかに沈んでいた。
「ファ、まだ鳴らないんだ」
妹が押す。空気だけが抜けるような音がした。
三十二年前の発表会でも、その鍵盤は鳴らなかった。練習では弾けていた曲の途中で音が抜け、妹は止まり、客席の母は帰宅後まで叱った。
「あなたは本番に弱い」
「お兄ちゃんは一度も止まらなかったのに」
兄妹はいつも比べられていた。兄は優等生、妹は気分屋。兄は期待、妹は心配。
兄は古い財布から、小さなフェルト片を取り出した。
「俺が挟んだ」
発表会の朝、鍵盤の隙間へ押し込んだのだという。妹ばかり褒められる週が続き、自分の場所を奪われる気がした。
「ずっと持ってたの?」
「捨てたら、なかったことにするみたいで」
妹はフェルトを指先で転がした。
「知ってたよ」
兄が顔を上げた。
「終わったあと、あなたの指に同じ赤い毛がついてた」
「どうして言わなかった」
「母さんに知られたら、あなたを二度とピアノへ触らせなかったから」
兄は、謝罪の言葉を何度も練習してきた。だが妹が自分を守って黙っていたと知ると、用意した言葉はどれも軽く思えた。
「私が音楽をやめたのは、一音のせいじゃない」
妹は椅子へ座った。
「家では、弾くたびに勝ち負けになった。好きだった曲まで試験みたいになったから」
兄も隣へ座った。
「ごめん」
「うん。遅い」
「うん」
「でも、今言ったのは偉い」
「上からだな」
「昔ずっと下にされたから、今日はいいの」
二人は、子どものころ連弾した曲を弾いた。鳴らないファのたび、どちらかが隣の音で補った。テンポは合わず、何度も笑った。
母へ聴かせるためではない。
上手なほうを決めるためでもない。
曲が終わると、妹はフェルト片をピアノの上へ置いた。
「これは捨てよう」
「いいのか」
「覚えてるから、物まで持たなくていい」
翌日、ピアノは運び出された。
空いた部屋で兄妹は、初めて、比べられずに同じ音を聴いた。