黒板の海が乾くまで
文化祭の閉会放送が流れたあとも、二年三組の黒板には青い鯨が泳いでいた。教室を海中喫茶にするため、梨都が三日かけて描いたものだ。尾びれは窓際まで届き、泡の中にはクラス全員の名前が小さく隠してある。
客が帰ると、机は元の列へ戻され、紙の魚はごみ袋へ入れられた。最後に残ったのが黒板だった。
「消すよ」
碧生が濡らしたスポンジを持った。梨都は返事をせず、鞄の中の美術予備校の退会届を指で押さえた。先週、講師に言われたのだ。きれいだけれど、どこかで見た絵だね、と。文化祭が終わったら、絵をやめようと決めていた。ロッカーには、描きかけの風景や没になった看板案が丸めてある。今日の鯨だけは皆に喜ばれたのに、それさえ自分の絵ではないように感じていた。
スポンジが鯨の腹を横切った。青は一瞬濃くなり、それから水に溶けた。泡の中の名前も、窓の光も、歓声も、順番に消えていく。
「写真、撮らなくていいの」
碧生が訊いた。
「残すほどじゃない」
言った途端、胸の奥で何かが沈んだ。
碧生はそれ以上勧めず、黒板の下半分を拭いた。けれど雑巾の水分が多すぎて、青と緑と白が筋になり、鯨の代わりに見たことのない潮目が生まれた。失敗した、と碧生が笑う。その笑い方があまりに普通で、梨都も少しだけ息を吐いた。
二人で最後まで消した。黒板が乾くにつれ、色は薄くなったが、完全な黒には戻らなかった。青い粉が細い雲のように残り、窓枠の影と混ざっていた。チョーク受けには、短くなった青が何本も転がっている。梨都が失敗だと思って捨てた線も、碧生が勝手に足した泡も、粉になれば区別がつかなかった。完成した絵だけを自分のものにしようとしていたことが、少しおかしく思えた。
梨都はそこで初めてスマートフォンを出した。撮ったのは完成した鯨ではなく、消したあとの黒板だった。
帰宅すると、退会届を机の端へどけた。代わりに新しいスケッチブックを開き、写真を見ながら、名もない海の線を引いた。
文化祭の海には戻れない。けれど、消えかけた色から始まる絵なら、まだ自分だけのものにできる気がした。