午前零時十四分

 伍稜クラウドの法務部に配属された薬袋由良は、取締役会へ呼ばれた理由を知らされていなかった。

 長机の端に座ると、画面には大型自治体との五年契約が映った。総額十二億円。そのうち契約成立時に移転する初期ライセンス料二億四千万円を、三月期の売上に計上するという。

「締結は三月三十一日。異論はないね」

 財務担当役員が言い、社外取締役たちがうなずいた。

 由良は契約管理画面を作った担当者だった。表示された契約書の右上には、確かに「2026/03/31 15:14」とある。会議資料では、その後ろにあった三文字だけが切られていた。小さな文字だったが、日付を一日変えるには十分だった。

「その時刻は、日本時間ではありません」

 声が思ったより大きく響いた。

 財務担当役員が眉を寄せる。

「日付は三十一日だ」

「電子署名サービスの監査証跡は、標準で協定世界時です」

 由良はノートパソコンをつなぎ、原本の監査ログを開いた。署名完了時刻の横に、小さく「UTC」と表示されている。

「十五時十四分に九時間を足すと、日本では四月一日午前零時十四分です」

「自治体側は三月中に押印する意思だった。形式論だ」

「契約書の第十八条は、両者の電子署名が完了した時点で効力発生、とあります」

 画面の下段にその条文を出すと、室内の空調音だけが残った。

 財務担当役員は、由良が持っているはずのない資料を見る顔をした。だが由良が前夜に依頼されたのは、取締役会用PDFから監査ログのページを削除する作業だった。理由を尋ねると、「ページ数を減らすため」とだけ返ってきた。

 由良の画面右下では、日本時間の日付が四月一日を示していた。たった十四分前なら、誰も疑わなかったはずだった。

「初年度分は翌期だとしても、誤差の範囲だ」

 社長が低く言った。

 監査法人の担当者が、机上のタブレットを伏せた。

「その二億四千万円がなければ、融資契約の利益条件を割ります」

 財務担当役員が何か言おうとしたが、議長は先に決算承認画面の署名ボタンを閉じた。

「午前零時を越えた契約で、三月を作ることはできない」

 画面から、承認待ちの青い印が消えた。