〇・二秒の拍手
壮真の名前が呼ばれたあと、体育館は〇・二秒だけ静かだった。
ほんのわずかな間だ。けれど、彼にはわかった。三年間、号砲と反応時間だけを気にして走ってきたからだ。
〇・一秒より早く動けばフライング。〇・三秒なら遅い。〇・二秒は、誰にも責められないぎりぎりの躊躇だった。
最初の拍手は、右後ろの列から聞こえた。直弥だった。そこから波のように音が広がり、壮真は卒業証書を受け取りながら、去年の県予選を思い出した。
四百メートルリレーの決勝。アンカーの壮真は、バトンを落とした。
拾って走ったが、最下位だった。ゴール後、誰も彼を責めなかった。それがかえって苦しかった。謝ろうとするたび、喉が固まった。
スタンドから降りてきた直弥は、地面に落ちていたバトンを拾い、壮真へ投げた。
「次、取りやすい位置に投げて」
「次なんかない」
「じゃあ卒業式で」
「は?」
「名前呼ばれたら、俺が拍手のスタート切る。お前、受け取れよ」
冗談だと思っていた。
その後、壮真は陸上部へ戻らなかった。進路を決め、放課後は図書室に通った。直弥とも、教室で話すだけになった。約束など忘れていると思っていた。
壇上から降りるとき、壮真は客席の端にいる倉橋先生と目が合った。先生は腕時計を指さし、指を二本立てた。〇・二秒。測っていたらしい。
席へ戻ると、直弥が前を向いたまま囁いた。
「遅かった?」
「ちょうど」
「バトン落とすなよ」
壮真は証書の筒を握り直した。赤い筒は、あの日のバトンより少し太かった。
式のあと、校庭で陸上部の後輩たちが花道を作っていた。壮真は避けようとしたが、直弥が背中を押した。
「アンカー、位置について」
後輩が笑い、倉橋先生がスマートフォンのストップウォッチを構える。ゴールは校門。たった百メートルだった。
「用意」
壮真は腰を上げた。胸の奥で、落としたはずの何かが手の中へ戻ってくる。
直弥の手が鳴った。
〇・二秒後、壮真は走り出した。今度は、誰よりも大きな拍手の中へ。