さよならを教えなかった
「さよなら」を教えなかった
初音は、僕に毎週一つずつ日本語を教えた。
月曜日は「おはよう」。
雪が降った日は「きれい」。
僕が焼いたシナモンロールを焦がした日は「まずい」。
彼女はヘルシンキの修復学校へ十か月だけ留学していた。僕は隣の弦楽器工房で働き、放課後になると彼女へフィンランド語を教えた。
別れるとき、初音はいつも「またね」と言った。
「英語の goodbye と同じ?」
僕が訊くと、彼女は少し考えてうなずいた。
「同じ。次に会うまでの言葉」
本当は違うと、僕は途中で知った。
辞書には、goodbye は「さようなら」、see you は「またね」とあった。
けれど訂正しなかった。初音が毎回、次を残してくれるのがうれしかったからだ。
留学最後の日、僕たちは凍った港を歩いた。
春が来る前に彼女は金沢へ戻り、家の古文書修復所で働く。僕も父の工房を継ぐ。どちらも、十か月前から決まっていた。
「遠距離、できると思う?」
初音が訊いた。
「できる、と言えば始める?」
「たぶん」
「僕が無理だと言えば?」
「少し安心する」
僕たちは笑った。
好きなのに、約束のほうを怖がっていた。
工房では木の匂いまで共有できた。けれど海を越えれば、会えない理由を毎回説明し、時差の中で相手を待ち、寂しさを我慢できた日数を愛の大きさにしてしまう。それを始める勇気が、二人にはなかった。
港の時計が、空港へ向かうバスの時刻を示した。
「初音が好きです」
僕は練習した日本語で言った。
彼女も日本語で答えた。
「私も、エーロが好き」
返事をもらったのに、恋人にはならなかった。
バスの扉が開く。
初音はいつものように言おうとした。
「また――」
僕は初めて、その先を止めた。
「さようなら、初音」
彼女の目から涙が落ちた。
「知ってたの?」
「かなり前から」
「どうして黙ってたの」
「あなたが『またね』と言うたび、次が本当にある気がした」
初音は泣きながら笑い、今度は正しい言葉を返した。
「さようなら、エーロ」
バスが港を離れたあと、僕のノートには日本語が一つ残った。
〈またね――次に会う約束がなくても、会いたいと思っている言葉〉
それは辞書にはない意味だった。
僕たちが十か月かけて、別れの日にだけ完成させた訳だった。