その名で呼ぶな

フィアナが嫌っているのは、父がつけた愛称だった。

「フィーちゃん」

王宮の茶会で継母がそう呼ぶたび、十年前の狭い物置が蘇る。失敗したら閉じ込められ、扉の向こうから甘い声で呼ばれた名。けれど事情を説明すれば家の恥になる。フィアナはいつも微笑んで受け流してきた。

ただ一人、クライヴ公爵を除いて。

初対面の日、彼は「フィーと呼んでも?」と尋ねた。フィアナが一瞬だけ指を強張らせると、理由も聞かず「ではフィアナ」と言い直した。それ以来、彼の領内でその愛称を使う者はいない。

婚約発表の夜、継母は満座の前で声を張った。

「フィーちゃんは昔から気が弱くて。公爵家の女主人など務まりませんわ。ですから私が後見人として――」

「その呼び方をやめろ」

クライヴの声は静かだった。静かすぎて、杯の触れ合う音まで止まった。

継母が作り笑いを浮かべる。

「家族の愛称ですのよ」

「本人が嫌がっている」

「まあ、フィーちゃん。そんなこと一度も――」

「二度言わせるな」

彼は敵将の降伏を拒んだときと同じ目で、継母を見た。社交界では「血の通わぬ黒公爵」と呼ばれている。実の弟にさえ規則違反の罰を与えた男だ。

けれどフィアナへ向き直ると、声の硬さが消えた。

「この場を去るか?」

それだけだった。耐えろとも、私に任せろとも言わない。

国王の前で退席すれば、婚約そのものが白紙になるかもしれない。周囲はフィアナが残ると思っている。気弱で、家族に逆らえず、公爵にすがるしかない娘だと。

継母が腕をつかもうとした。

クライヴはその手を払いのけず、間へ自分の手袋を差し入れた。触れるかどうかさえ、フィアナに選ばせる距離で。

「婚約も今夜の発表も、君が望む場合だけ続ける。嫌なら、私がすべて止める」

「公爵家の面目はどうなさるの!」

継母の叫びに、クライヴは眉一つ動かさない。

「彼女の拒絶より重い面目などない」

フィアナは差し出された手袋には触れず、自分の足で一歩、継母から離れた。

「その名で呼ばないでください」

クライヴは初めて、ほんの少し笑った。

「聞いたな。公爵令だ。彼女の名は、フィアナだ」