ひび割れ書店の昼下がり
碧乃が王立記録院で最後に着ていた紺の制服は、袖だけ色が薄い。十年、机に擦りつけてきた跡だった。
退職後に譲られた古書店〈綴じ目〉は、名前どおり建物のあちこちに裂け目があった。窓枠は歪み、階段は三段目だけ沈み、天井からは細かな漆喰が落ちる。
ところが、閉店札を掛けて碧乃が二階へ上がると、店はこっそり傷を縫い始めた。木目から細い糸が伸び、割れた板を寄せる。剥がれた壁紙はページをめくるように元へ戻る。朝には埃まで棚の瓶へ集められていた。
会員客は、入口の読書台へ月額硬貨を置き、好きな本を一冊借りる。返却された本は店が破れを直し、元の棚へ運ぶ。碧乃は一日に一度、売上通知を見るだけでよかった。
《定期購読料、入金。家賃・食費・薪代を充足》
その表示の下へ、見慣れた赤字が重なる。
《記録院・至急。災害史料八百冊の再分類。担当者不在につき復帰を要請》
担当者不在、という言葉に碧乃は笑った。自分が在職していた頃も、担当者は実質一人だった。休暇申請のたびに「君しか分からない」と返され、ついには制服の袖より先に心が薄くなった。
彼女は短く返信した。
《私しか分からない状態を作ったのは、私ではありません。復帰しません》
すぐに院長から通話が来た。
『責任感があるなら助けるべきだ』
「責任を引き受ける相手を、今日から自分で選びます」
通話を終えると、店の三段目が小さく鳴った。沈んでいた階段が、まっすぐになった音だ。
階下で、子どもが借りた本を落とした。表紙が外れ、泣きそうな声で謝る。碧乃が立つより早く、棚から紙糸が伸び、表紙を元へ綴じた。会計台は延滞も破損料も請求せず、次に借りられる本を一冊示した。子どもの顔が明るくなる。記録院なら、事故報告、弁償申請、責任者印が必要だった。店は直せる傷を罪にしない。そのことが、碧乃には何より贅沢に思えた。
一階では、誰もいない会計台が客へ貸出票を差し出している。碧乃は店番に下りず、窓辺の長椅子へ座った。売り物ではない薄い冒険譚を開く。
通知板の明かりを布で覆うと、午後の静けさだけが残った。
彼女は初めて、資料ではなく物語の続きを読むために、昼を使った。