まばたきは二回
志摩崎羽音の母・沙月が事故に遭ってから、病室の会話は片道になった。
「今日、算数で百点だったよ」
「給食の豆、二個残した」
「怒るなら怒ってよ」
母は目を開けていたが、声を出せず、指も動かせなかった。医師は「聞こえています」と言った。それでも返事のない顔へ話し続けるのは、海へ手紙を投げるようだった。
ある水曜日、動物介在活動の猫が病棟へ来た。
薄茶色の長毛猫で、名はノワル。大きなかごから出ると、犬のように愛想を振りまくでもなく、母の足元へ飛び乗って丸くなった。
「寝るだけ?」
羽音が呆れると、係の人は笑った。
「猫は、待つのが仕事になることもあるんだよ」
ノワルは母の顔をしばらく見つめ、ゆっくり目を閉じた。開いて、また閉じた。
「何してるの」
「猫の挨拶。安心してるよ、っていう、ゆっくりしたまばたき」
羽音も真似をした。母へ向かい、ゆっくり二回。
返事はなかった。
翌週も、その次の週も、ノワルは足元で眠った。羽音は学校の話をし、最後に二度まばたきをした。返事を期待すると苦しくなるから、これは自分からの挨拶なのだと思うことにした。
理学療法士は、母に「一回ならいいえ、二回ならはい」と伝える練習を続けていた。けれど、まぶたは疲れると動きが曖昧になる。羽音は正解を急かしたくなくて、その練習を見ないふりしていた。
夏休みの終わり、羽音は病室で泣いた。
運動会のリレー選手に選ばれたのに、母は見に来られない。嬉しいと言えば母を傷つけ、悲しいと言えば困らせる気がした。
「もう、何を話せばいいかわかんないよ」
ノワルが起き上がり、羽音の膝へ前脚を置いた。喉が小さく鳴っている。
羽音は涙を拭き、母を見た。
「お母さん。私、走っていい?」
ゆっくり目を閉じる。一回。
開く。
もう一回。
羽音は息を止めた。母のまぶたが、ほんの少し遅れて閉じた。開いて、また閉じた。
偶然かもしれない。けれど母の目尻から、涙が一本こぼれた。
「もう一回聞くよ。走っていい?」
二回。
今度は、はっきり二回だった。
運動会の日、羽音は病院から借りた小さなカメラを胸につけて走った。カメラが揺れ、空と土と友達の背中がめちゃくちゃに映った。順位は三着。病室へ戻ると、息を切らしたまま録画を見せた。
「ただいま」
母の唇はまだ動かない。
けれど、二回まばたいた。
足元でノワルも目を細めた。返事は声だけで届くものではないと、病室にいる三人は、もう知っていた。