もう言えない一言

夜茶係のソリュネは、王宮でいちばん遅く湯を沸かす侍女だった。

眠れない王妃、帳簿を閉じない宰相、夜明けまで手紙を書く王女。誰のための茶にも名札を添え、銀盆に載せる。けれど今夜、彼女が用意した一杯には、届け先の部屋がなかった。

声茶は、湯気に向かって一言だけ話せば、どれほど遠い相手にもその声を運ぶ。その代わり、茶を淹れた者の声は、以後その相手にだけ届かなくなる。

厨房裏の小窓から、北塔の火が見えた。反乱を企てた大臣が幼い王子を連れ、夜明けに城門を出るという。王子付きの近衛オルダンは何も知らず、北塔の交代へ向かったままだ。

知らせに走れば廊下の兵に捕まる。鐘を鳴らせば人質が危ない。声茶なら、彼だけに届く。

ソリュネは乾燥させた青葉を壺から取った。手が震え、一枚落ちる。

オルダンは来月、任期を終えて故郷へ帰る。そのとき一緒に来ないかと、昨夜、茶器棚の陰で言われた。答えはまだ渡していない。

「考えておいてくれ。帰ったら聞く」

彼はそう笑った。ソリュネは「帰ってきたら」と訂正し、二人で小さく笑った。

声茶を使えば、彼が戻っても、ソリュネの返事は彼に聞こえない。隣で叫んでも、耳元で囁いても、彼にとってだけ無音になる。文字で伝えることはできる。手を握ることもできる。それでも、彼が好きだと言った自分の声を、一度くらい聞かせたかった。

北塔の火が二つに増えた。出発の合図だ。

湯を注ぐと、青い香りが立った。ソリュネは杯を両手で包む。

伝えるべきことは短い。王子を守るための言葉だけでいい。けれど湯気の向こうに、帰らなかった未来がちらついた。

「オルダン。北塔の馬車を止めて。王子が乗せられている」

湯気が一本の糸になり、窓の隙間から夜へ走った。

遠くで剣の抜かれる音がした。次いで、王子の泣き声と、警鐘。

ソリュネは胸を押さえ、試すように名前を呼んだ。

「オルダン」

自分の耳には確かに響いたのに、北塔から駆け戻った彼は、開いた扉の前で首を傾げた。

その顔を見たまま、ソリュネは昨夜の返事を、声にする前に飲み込んだ。