カラスは塩加減にうるさい
弁当屋「日々菜」の裏口には、夕方になると一羽のカラスが来る。
硯川有生が残飯を与えたことはない。黒い客は物干し竿へ止まり、仕込みの様子を見ているだけだった。
「監督のつもりか」
有生が言うと、カラスは首を傾けた。
声を聞いたのは、店を始めて三年目の秋だった。
閉店後、売れ残った鮭弁当を開けると、頭上からはっきり言われた。
「塩が強い」
有生は箸を落とした。
竿の上で、カラスが嘴を拭っている。
「今、喋った?」
「夕方に一度だけだ」
「何が?」
「喋れるのが」
その日はそれきり、何を聞いても普通の鳴き声しか返らなかった。
翌日、カラスは同じ時刻に来た。
「卵焼きが甘すぎる」
翌々日は、
「蓮根は昨日の方がよい」
腹が立つのに、有生は言われたところを少しずつ直した。常連客から「最近さらにおいしい」と言われるようになった。
カラスには、黒豆から取って「くろ豆」と名をつけた。
ただし、くろ豆は味だけを見ていたわけではない。
十二月の忙しい日、有生は朝から何も食べず、閉店後も翌日の仕込みを続けた。くろ豆が竿へ降りたとき、有生は包丁を止めずに訊いた。
「今日は何だ。人参が太いか」
カラスは店内を見回し、夕方の一言を使った。
「作る者が、冷めた飯を食うな」
有生は包丁を置いた。
「二言目は?」
くろ豆はもう鳴くだけだった。
炊飯器には、まだ温かいごはんが一膳分あった。揚げたての鶏を二切れ、千切りキャベツと一緒に皿へ載せる。店先の丸椅子を裏口へ出し、有生はくろ豆の下で食べた。
衣を噛むと、生姜と醤油の香りが広がった。自分で作ったのに、こんな味だったかと思う。
「塩は?」
くろ豆は答えない。代わりに羽を少し膨らませた。
それから有生は、閉店後の自分用に一品を残すようになった。
くろ豆の分はない。カラスへ人の総菜を与えない約束だ。それでも黒い監督は毎夕やってきて、湯気の向きを見ている。
春先のある日、有生が炊きたての筍ごはんを口へ運ぶと、くろ豆が言った。
「今日は、よくやった」
一日一度の声をそれに使われ、有生はしばらく箸を持ったまま動けなかった。
裏路地には醤油と木の芽の香りが流れ、夕日を受けた黒い羽が、温めた鉄鍋のように淡く光っていた。