ゼロ秒後の歌詞

仁科キリが屋上から落ちた夜の曲には、終了後ゼロ秒の歌詞があった。

追悼ライブで『カウント・イン』が流れた時、元バンド仲間の菅生太一は歌詞表示の異常に気づいた。再生時間は三分十七秒。最後のベース音が消えたあと、時刻表示だけが一瞬「00:00」に戻り、短い一行を出した。

〈間に合ったね〉

すぐ画面は暗転した。観客は演出だと思って拍手したが、太一の指は冷えた。

キリは演奏に遅れた人を怒らなかった。クリックが三つ鳴るまでに構えれば、必ず笑って言った。

「間に合ったね」

その優しさに甘え、太一は何度も遅刻した。最後の夜もそうだった、と警察には話した。屋上へ着いた時にはキリはもう落ちたあとで、誰も助けられなかった、と。キリは録音ボタンを押す前の空気を必ず残した。演奏より先に鳴る咳や椅子の軋みこそ、その場にいた人間の嘘をつかない、と言っていた。太一は、その癖を忘れたふりをしていた。

曲が二度目のサビへ入る。左右に振られたクリック音の中央で、キリのベースだけがわずかに走る。太一は覚えている。彼女が恐怖を隠す時の癖だ。契約を横取りした太一を呼び出し、原盤を返してと迫った夜も、指が同じように走っていた。

主催の音響担当が歌詞ファイルを開いた。最後の一行には、時刻「-00:00.62」と記録されている。負の時刻を扱えない再生ソフトが、曲の終了後にゼロ秒として表示したのだという。

つまり、その言葉は最後ではない。イントロより前、録音開始の〇・六二秒前に入っていた。

音響担当がプリロールを再生する。

風。屋上扉の電子錠。太一の靴底が水たまりを踏む音。そして、キリの安堵した声。

「間に合ったね」

直後に太一が言う。

――データを渡せ。今なら事故で済む。

客席の拍手が止まった。太一は立ち上がったが、通路の両側には刑事がいた。

存在しない最後の歌詞は、別れの言葉ではなかった。

太一が彼女の死に「間に合っていた」ことを示す、最初の一言だった。