バス停の青い長靴
早瀬野絢が病院前のバス停へ駆け込むと、ベンチの下に青い長靴が二つ並んでいた。
持ち主は六歳くらいの男の子で、隣に父親らしい若い男性が座っている。
「すみません、詰めます」
男性が買い物袋を膝へ載せ、絢の場所を空けた。
雨は道路を細い川に変えていた。
絢は祖母の見舞いの帰りだった。祖母は元気そうに笑い、「雨の日まで来なくていい」と言った。その言葉が、来てほしくなかったのか、心配してくれたのか、まだ胸の中で決まらない。
男の子は水たまりを見つめていた。
「入りたい?」
絢が訊くと、真剣な顔で頷いた。
父親がすぐに言う。
「帰りのバスに乗るまでは駄目」
「乗ったあとなら?」
「家へ着いてから」
「それ、水たまりじゃなくて風呂」
男の子の返しに、絢は笑った。
父親の袋から、焼きたてらしいパンの匂いがした。
「病院の売店で買ったんです。母がここのメロンパンが好きで」
「お見舞いですか」
「はい。でも今日は眠ってて。起こさず置いてきました」
会えなかったのに、声は穏やかだった。
「せっかく来たのに、残念じゃないですか」
「寝てるなら、たぶん休めてるってことなので」
父親は袋の口を閉じた。
「会うことより、寝てもらう方がいい日もあります」
絢は祖母の言葉を思い返した。
雨の日まで来なくていい。それは拒まれたのではなく、自分の足元を心配されたのかもしれない。
無理に答えを確かめなくても、次の晴れた日にまた来ればよい。
男の子が突然、ベンチの下から長靴を一つ持ち上げた。
「雨の音、入ってる」
逆さにすると、底へたまった水が少しこぼれた。
父親はため息をつきながら、ハンカチで拭いた。
バスが近づくころ、雨は細くなった。
道路の向こうで雲が切れ、水たまりに明るい空が映る。
男の子は乗車前、長靴の先で一度だけ小さな水たまりを踏んだ。
父親は叱らず、「一回だけ」と言った。
絢も同じバスへ乗った。
車内には濡れた服とメロンパンの甘い香りが漂っていた。
窓へ流れる雨粒の向こうで、祖母の病室のある建物が小さくなる。
次は晴れた日に、パンを一つ持って行こう。
そう決めると、青い長靴が残した水の跡さえ、少し温かなものに見えた。