フクロウ書房の閉店後
古海千紘は、本を最後まで読めなくなっていた。
映像編集の仕事を終え、寝る前に頁を開いても、三行で目が滑る。栞が増えるたび、途中で投げ出した自分の記録が棚へ並ぶようだった。
夜十一時まで開く「フクロウ書房」を見つけたのは、残業帰りだった。
店主のフクロウ、頁は、止まり木ではなく帳場の古い辞典の上に立っていた。人間の店員が棚へ本を戻し、頁は大きな目で客を見送っている。
「読み終えられる本をください」
千紘が言うと、頁は首をほぼ一周させた。
「どれも、最後まで読めば終わります」
「そうではなくて、今の私でも」
「今のあなたは、何頁ですか」
「人間です」
「答えになっていませんね」
頁が選んだのは、一頁だけの物語を集めた薄い本だった。
「一日一つ」
「二百話あります」
「二百日も楽しめます」
「早く読み終えたいんです」
「なぜ?」
千紘は答えられなかった。
店の奥には四席だけの読書喫茶がある。人間の店員が栗を焙じた茶を淹れ、頁は千紘の向かいの椅子へ降りた。
最初の物語は、雨の日に犬が軒下へ入るだけの話だった。読み終えるのに一分もかからない。
「短すぎます」
「では、今の匂いを一つ」
「匂い?」
「物語の続きは、頁の外にあります」
千紘はカップへ顔を近づけた。茶葉の香ばしさに、栗の甘い匂いが混じっている。窓の外では、遅い雨が街灯を曇らせていた。
「濡れた犬と、栗のお茶」
「二つですね」
頁は満足そうに目を細めた。
その夜、千紘は一頁だけ読んで本を閉じた。翌日も一頁。その次の日は疲れて読まなかった。
一週間後、返却ではなく報告に店を訪れる。
「まだ五話です」
「ずいぶん進みました」
「二日、読めませんでした」
「本は怒りましたか」
「いいえ」
「なら、あなたも怒らなくてよい」
千紘はまた奥の席へ座った。頁は帳場へ戻り、人間の店員が温かな茶を置く。
古い紙、木の棚、焙じ栗の香り。閉店後、看板が裏返されても、店内の灯りは千紘の頁が終わるまで一つだけ残った。
読みかけの本は、失敗の山ではなかった。帰る場所を何か所も挟んであるだけだ。千紘は六つ目の物語を読み、栞をそっと置いた。