ベルの次の持ち主

 夫の黄色い自転車を、私は七年間、物置から出せなかった。

 最後に乗った朝のまま、前籠には軍手が片方、泥除けには乾いた雨粒の跡が残っていた。タイヤの空気が抜けても、埃が積もっても、拭けば夫まで消える気がした。

 町の図書館が共同自転車を募っていると知ったのは、八年目の春だった。

「本を運べれば、古くても構いません」

 職員に言われ、私は名前を伏せて寄付した。代わりに一つだけ頼んだ。

「籠に、小さなノートを入れてください。行った場所を書いてもらえたら」

 最初のページには、翌日すぐ文字が増えた。

〈団地の五階。図鑑を返しに〉

〈職業相談所。面接に間に合った〉

〈川向こうの病院。父の着替えを届けた〉

〈海。息子に初めて水平線を見せた〉

 夫は休日になると、「用事がなくても道は減らない」と言って自転車で出かけた。私は家で待つばかりで、どこがそんなに楽しいのか分からなかった。

 ノートが一冊終わるころ、自転車は少しずつ変わっていた。破れたサドルには誰かが布を張り、錆びた籠は青く塗られ、ベルは澄んだ音の新品になった。

 夫の自転車ではなくなっていく。

 そう思うたび寂しくなったが、ページを開けば、知らない人の一日が続いていた。

〈謝りに行った。許されなかった。でも行けた〉

〈閉店前のケーキ屋。娘の誕生日に間に合った〉

〈ただ風に当たりたくて一周。少し眠れそう〉

 ある夕方、図書館から電話が来た。

「自転車が一台余っています。乗ってみませんか」

 私は断りかけ、物置の空いた場所を見た。

 借りた自転車は、私の知らない高さにサドルが調整され、知らない手の跡でハンドルが磨かれていた。けれど漕ぎ出した瞬間、車体が左へ少し傾く癖だけは昔のままだった。

 私は夫の墓へ向かわなかった。

 ノートに何度も出てきた海まで走った。坂では息が切れ、信号では何度も足をついた。ようやく見えた水平線は、待っているだけの窓から見る空より広かった。

 帰りに、ノートへ初めて自分の字を書いた。

〈形見を返してもらいに行った。でも、もう私一人のものではなかった。海まで行けた〉

 翌朝、自転車を図書館へ戻した。

 新しいベルを一度鳴らすと、次の借り手が振り返った。

「よく走りますか」

「ええ。道を、たくさん知っています」

 私は物置を空のままにした。

 夫の形見はそこにはない。今日も町のどこかで、誰かを間に合わせている。