ミュート解除の昼休み
三田村湖春は、配信するときだけ標準語を使った。
法律事務所では丁寧語、実家への電話では博多弁。ゲーム配信者〈コハク〉として話すときは、その中間に薄い声の加工まで重ねる。身元を隠すためだと説明していたが、本当は方言を「田舎っぽい」と言われた大学時代の記憶が残っていた。
昼休み、湖春は空いた会議室で十五秒の告知動画を録った。夜に挑む高難度ステージの予告だ。ところが同じパソコンでは、全社員参加のオンライン研修が開いたままだった。
ボスの攻撃を一度だけ試し、思わず叫ぶ。
「うわ、今ん避けたやろ! ばり悔しか!」
画面の端に、赤いマイクの印が見えた。
研修の参加者、四十七名。全員に聞こえていた。講師まで資料をめくる手を止め、画面の向こうで目を丸くしている。
チャット欄に「誰?」「元気だな」と文字が並ぶ。湖春は反射的に退出し、午後は一度も顔を上げられなかった。
終業後、派遣スタッフの大庭莉世が書庫まで追ってきた。
「三田村さん」
湖春は謝罪の言葉を用意した。
「研修中、失礼しました」
「違います。コハクさんですよね」
心臓が一段落ちた。
莉世は慌てて両手を振った。
「誰にも言いません。私、〈眠れぬ鹿〉って名前で見ています」
湖春はその名を知っていた。深夜になると必ず「今日もここまで来られた」と短く残す視聴者だ。
「声、加工してるのに」
「笑う直前だけ方言が出るから。そこが好きで」
莉世は少し目を伏せた。
「転職してから眠れなくて。でも、コハクさんが失敗して『もう一回たい』って言うと、明日もやっていい気がしたんです」
湖春が隠したかった部分を、誰かは救いとして受け取っていた。
その夜、配信開始前の設定画面で、湖春は音声加工のつまみを見つめた。完全に外せば、身元を探る人もいるかもしれない。怖さが消えたわけではない。
それでも、つまみをゼロまで下げた。
「こんばんは、コハクです」
一拍置いて、ボスの扉を開く。
「今日は、うちの声で行くけんね」
チャット欄の一番上に、鹿の絵文字が跳ねた。