ミルク色の秒針
月岡菜々子が修理を頼んだ腕時計には、秒針がなかった。
母の葬儀から一週間。最後に言われた「もう来なくていい」という言葉だけが、秒針の代わりに胸を一周し続けている。その記憶を消してほしかった。
腕時計は、菜々子が就職した日に母から贈られたものだった。忙しいと言って病室へ行けなかった日も、文字盤だけは毎朝見た。だから止まった時計を見るたび、母に責められている気がする。
白峯律希はミルク色の手袋をはめ、時計を光に透かした。黒いシャツも黒い髪も隙なく整っているのに、手袋だけが子どもの菓子みたいに白い。指先からは、かすかに石鹸の匂いがした。
「消す修理はしません」
「修理屋なのに?」
「壊すのは専門外です」
律希は同じ言葉を繰り返し、菜々子が抗議するたび、白い手袋で竜頭を一目盛りだけ戻した。
やがて時計の盤面に、病室の夕方が浮かんだ。
母は「もう来なくていい」と言った。その直前、菜々子は会社を休めないと謝っている。そのさらに前、母は眠ったふりをして、菜々子が売店へ行くのを待っていた。枕の下に、小さな録音機を隠すために。
律希は裏蓋から米粒ほどの音片を取り出した。
『来なくていい。あなたは、あなたの朝へ行きなさい』
そのあとに、布団が擦れる音と、小さな笑い声も残っていた。母は昔から、照れくさい言葉を冗談のように笑って隠す人だった。菜々子は、それまで忘れていた笑い方まで一緒に思い出した。
後半は時計の停止音に潰され、記憶から落ちていた。
菜々子は泣きながら笑った。「それでも、最後の言い方はひどい」
「ひどい記憶まで直すと、その人ではなくなります」
律希は秒針を取り付けた。ミルク色の細い針だった。
「白は、消した色じゃないんですね」
「残したものが見える色です」
会計を終えた菜々子が手袋のことを尋ねると、律希は片方だけ外した。掌には細かな火傷の跡があったが、説明はしない。
「消す修理はしません」
今度の言葉は、自分の傷にも向けられているようだった。
店を出た腕の上で、ミルク色の秒針が進む。母の最後の言葉は消えない。けれど、その後ろに続く声も、もう二度と欠けなかった。