ミルフィーユは立てない

久世弥生は、洋菓子店「パルク」のショーケースに残ったミルフィーユを見ながら、恋人からのメッセージを未読のままにしていた。

〈七時に不動産屋。遅れないで〉

転勤先の部屋を決める内見だった。彼は二人で移る前提で話し、弥生が今の職場をどうするかは「向こうで考えればいい」と言った。昨夜、結婚するなら普通だろう、とも。

ミルフィーユは、飴色の層を高く積み、上に白い糖衣を引いた昔ながらの形だった。弥生はそれを一つ頼み、「崩れないように、縦のままで」と付け足した。

店主は細長い箱を取り出したが、ケーキを見て首を振った。

「これは立てて運ぶ品ではありません」

説教ではなく、作業上の確認の口調だった。店主は底へ薄紙を敷き、ミルフィーユをそっと横に寝かせた。クリームが片側へ寄らないよう、二枚の厚紙で支えを作る。上面だった糖衣は、箱の中では横を向いた。

「見た目、変わりますね」

「運べる形になります」

店主はそれ以上言わず、箱に「横置き」と赤鉛筆で書いた。

弥生は笑いそうになった。自分はずっと、関係を立たせておくために、仕事も友人も住む町も横へ押し込めようとしていた。形を保つことと、無理なく運べることは同じではない。

会計を待つ間、恋人から着信があった。店内の振り子時計が六回鳴る。弥生は電話を取らず、メッセージ画面を開いた。

〈内見には行かない。転勤にもついていかない〉

そこまで打って、指が止まる。曖昧にすれば、また説得されるだろう。店主は箱の蓋を閉じ、一辺ずつ、紙テープを押さえていた。どこにも飾りのリボンを掛けない。

弥生は続けた。

〈結婚の約束も取り消したい。荷物は日曜に分ける〉

送信すると、胸の奥で何層かがばらばらになった。けれど崩壊ではなかった。店主から受け取った箱は、横長のまま腕に収まり、驚くほど持ちやすい。

店を出て、弥生は不動産屋とは反対へ歩いた。今夜ミルフィーユを切れば、断面は少し潰れているかもしれない。それでも一層ずつ、自分の口で確かめられる。