レモンを半分だけ

 藤巻絹香は、古い犬のセロが食卓の下へ来るたび、昔の恋人を思い出した。

 セロは悠成と暮らしていた犬だ。二人が別れるとき、海外赴任で連れて行けないからと、絹香の家へ残された。彼女はそれを、犬まで押しつけられたのだと思っていた。

 悠成がよく作ったのは、レモンクリームのパスタだった。白いソースに黄色い皮を散らし、「酸っぱい方が目が覚める」と笑った。別れて七年、絹香は一度も作らなかった。

 セロが十六歳になった春、獣医から遠出を控えるよう言われた。帰宅した絹香は、なぜかあのパスタを食べたくなった。

 生クリームを温め、レモンを絞る。最初は分離し、二度目は酸っぱすぎた。三度目、古い料理本を開くと、間から悠成の字で書かれた付箋が落ちた。

〈皮は僕の皿だけ。絹香は苦いのが苦手。果汁は半分、残りは炭酸水へ〉

 二枚の皿に違う仕上げをしていたことを、絹香は忘れていた。あの頃は、同じものを食べていても気持ちは別々だと思っていたのに、彼は彼なりに味を分けていた。

 絹香は皮を入れず、果汁を半分だけ落とした。茹で汁で伸ばし、黒胡椒を一度。皿を置くと、セロが鼻を上げ、若い頃のように一歩だけ近づいた。

「これは食べられないよ」

 言いながら、絹香は笑った。

 パスタは記憶よりやわらかく、レモンの酸味は丸かった。別れが間違いだったとは思わない。あの赴任について行くことも、待つことも、自分にはできなかった。ただ、捨てられたという思いだけは、少し違ったのかもしれない。

 絹香は悠成へ、セロが丸く眠る写真を送った。

〈レモンパスタを作った。皮なしで〉

 返事は短かった。

〈覚えてたんだね。セロによろしく〉

 絹香は携帯を伏せ、残ったレモンを炭酸水へ絞った。セロの寝息が足元で続く。部屋にはバターと柑橘の香りが混じり、窓を開けても、しばらく消えなかった。

 翌週、絹香はセロ用の柔らかなごはんを作り、自分にはまたパスタを茹でた。今度は胡椒を少し増やした。悠成の味を正しく保存するより、今の舌で食べ直す方が、過ぎた時間には似合っている。セロは匂いだけ確かめ、安心したように伏せた。