ローマ字は順番を忘れる
国際芸術祭の遺失物係に、〈AOI TACHIBANA〉から電話が来た。
『黒い旅行鞄を捜してください。中には白いドレスと銀の靴があります』
十分後、同じ名前から二度目の電話が来た。
『鞄には手錠、偽の血糊、折り畳み式の剣が入っている。至急だ』
私は端末を二度見した。登録番号も宿泊先も同じ欄に統合されている。
「結婚式で手品でもなさるんですか」
『何の話です?』
声まで違った。最初は澄んだ女性の声、次は低い男性の声。通訳機の不調かと思ったが、その後も連絡は混乱した。
『午後三時には式場へ運んでください』
『午後三時には大劇場へ運んでくれ』
『花嫁が待っています』
『観客が二千人待っている』
私は、二重生活を送る奇術師の花嫁を想像した。
倉庫には、該当する黒い鞄が二つあった。どちらの札にも〈AOI TACHIBANA〉。片方を開けると純白のドレス、もう片方からは鎖と鳩の餌が出てきた。
館内放送で名前を呼ぶ。
「アオイ・タチバナ様、遺失物係へお越しください」
二人が同時に現れた。
一人はウェディングベールを頭に載せた女性。もう一人は黒い燕尾服の男性だった。
女性が身分証を置く。
〈橘 葵――TACHIBANA AOI〉
男性も置いた。
〈葵 橘――AOI TACHIBANA〉
女性は姓が橘、名が葵。男性は姓が葵、名が橘だった。
芸術祭の登録欄は〈NAME〉の一つだけ。女性は日本式に姓から、男性は案内どおり名から入力した。その結果、二人とも画面上では〈AOI TACHIBANA〉になり、ホテルの自動印刷機が同じ荷札を作っていた。
「私は花嫁です」
「私は脱出奇術師です」
「手錠の理由は分かりました」
私が言うと、花嫁が一歩引いた。
鞄を交換すると、二人はそれぞれ式場と劇場へ走っていった。危うく花嫁が剣を持ち、奇術師が銀の靴で舞台に立つところだった。
閉会後、業務報告書に改善案を書いた。
〈氏名欄を、姓と名に分けること〉
名前は人を区別するためにある。
けれど順番を忘れたローマ字は、ときどき見事な入れ替え奇術を演じる。