一人で平気な救護室

駅の救護室が閉まるまで、あと十二分だった。

鴨川紗英は簡易ベッドに座り、冷却シートを額から剥がした。送別会の途中で熱が上がり、改札前でしゃがみ込んだところを、宮地昴に見つかった。昴は明日の朝、転職先のある仙台へ発つ。送別会では笑って見送るつもりだったのに、最後に見せたのが弱った姿であることも、紗英には耐えがたかった。

「タクシー呼んだ。家まで行く」

「一人で平気」

体温計は三十八度一分を示していた。駅員が「最終電車は十分後です」と告げ、救護室の扉を閉める。紗英は靴を履こうとしたが、指先がうまく動かなかった。

昴がしゃがみ、ほどけた靴紐を結ぶ。

「こういうときまで拒否するの、何で?」

「迷惑かけたくないだけ」

「俺が迷惑だと言った?」

言っていない。昴は紗英が残業で食事を抜けばパンを置き、雨の日は傘を二本持ってきた。それでも紗英は礼を言った翌日、必ず同じくらいの何かを返した。世話を受けたままにできなかった。彼女の机の引き出しには、返礼用の菓子と新品のハンカチがいつも二つずつ入っていた。

前の恋人と暮らしていた頃、紗英は足を骨折した。買い物も洗濯も頼るしかなかった三週間の終わり、相手は「君は一人じゃ何もできない」と言って去った。あれ以来、助けてもらうほど、見捨てられる準備をされている気がする。

「一人で平気だから、終電乗って」

「明日から遠くなるのに、今日まで平気なふりする?」

逃げられない問いだった。救護室の時計の秒針と、ホームへ電車が入る音が重なる。

昴は紗英の鞄を取らず、手の届くところへ掌を置いた。

「頼られたから好きになるわけじゃないし、頼られたから嫌いにもならない」

長い励ましではなかった。ただ、発車ベルが鳴っても、その手は引っ込まなかった。

紗英は自分の鞄を、昴の掌へ載せた。

「一人で平気って、もう言わない」

ホームの向こうで最終電車の扉が閉まった。昴は鞄を肩に掛け、紗英は差し出された腕につかまった。二人分の足音が、タクシー乗り場へゆっくり続いた。