一周遅れのゴールテープ

【リハビリ記録 一日目】

遠矢小麦、平行棒内を三歩。

本人、「元陸上部に三歩は記録じゃない」と不機嫌。

祖父、ヘルマンリクガメ一匹を病室へ持参しようとして受付で止められる。

交通事故から二か月、小麦の右脚は思うように動かなかった。百メートル走の県大会へ出た自分が、ベッドから洗面所までを目標にする。そんな現実を、彼女はまだ認められずにいた。

退院の日、祖父は家の廊下へリクガメを置いた。

名前は「千里」。二十年前から飼っている。

「今日から散歩係」

「これ、散歩って速度じゃない」

「おまえに合わせてくれる生き物は貴重だぞ」

【自宅記録 三日目】

千里、廊下を一・八メートル。

小麦、杖で二・一メートル。

小麦の勝ち。ただし千里は昼寝を含む。

【十二日目】

千里、庭まで六メートル。

小麦、途中で座る。

千里が靴の上へ乗り、そのまま十分休憩。

引き分け。

小麦は毎朝、千里の隣を歩いた。速く進めない日は、甲羅の模様を数えた。転びそうになると、千里は助けてくれない。励ましもしない。ただ、自分の歩幅を変えずに先へ行き、少し離れた場所で草を食べた。

置いていかれることが、こんなに腹立たしく、こんなにありがたいとは思わなかった。

【五十六日目】

小麦、庭を一周。

千里、半周地点でコース外のタンポポへ。

失格。

秋、病院のリハビリ行事で百メートル歩行に参加した。かつて走った競技場だった。スタートラインに立つと、観客席の記憶が押し寄せ、脚が固まった。

祖父が最前列から透明なケースを掲げた。中で千里が、こちらに尻を向けていた。

「応援する気ないじゃん」

笑った拍子に、最初の一歩が出た。

ゴールまで十二分かかった。以前なら十五秒にも満たなかった距離だ。最後の一メートルで涙が出た。失った速さを思ったのではない。三歩を記録ではないと言った自分が、百メートルすべての一歩を覚えていることに気づいたからだった。

【百二日目】

小麦、百メートル完歩。

千里、自宅の庭を三・四メートル。

小麦の圧勝。

記録の下に、祖父が赤字で書き足した。

〈ただし千里は、二十年かけて小麦をここまで連れてきた。総合優勝〉

小麦は抗議せず、千里へ小さなタンポポの花束を贈った。