一枚ぶんの影
久世璃子がカメラの充電を始めたのは、日が傾いてからだった。バロンを明朝、緩和ケア施設へ預ける。面会はできるが、散歩はもう難しいと説明された。十八年暮らしたアパートも、来月には引き払う。
最後に一枚だけ、玄関前で写真を撮ることにした。
スマートフォンではなく、父から譲られた古いデジタルカメラを選んだ。バロンが子犬だったころ、最初に撮ったのもこれだったからだ。けれど思い出を並べるつもりはない。今日の光を一枚残す、それだけに決めた。
バロンは階段を下りられない。璃子は十三キロの体を抱え、一段ずつ降りた。地面へ置くと、老いた雑種犬は尻尾を一度だけ振り、いつもの植木鉢へ向かった。
アパートの前は西日が強かった。壁のひび、錆びた自転車、隣室の子どもの小さな長靴まで写り込む。背景を整えようと自転車を動かしかけ、璃子はやめた。ここはいつもこうだった。
バロンを壁際へ座らせる。だがカメラを構えると、すぐ璃子のほうへ歩いてくる。待て、を忘れたのではない。昔から写真が嫌いで、レンズを見ると撮る人の足元へ逃げる犬だった。
三脚を立て、十秒タイマーにする。璃子はシャッターを押してバロンの隣へ走った。バロンは立ち上がり、彼女の膝に鼻をつけたところで電子音が鳴った。
画面には、顔を伏せた璃子と、横向きのバロンが写っていた。どちらもカメラを見ていない。足元から伸びた二つの影だけが、壁の上で並んでいる。
撮り直そうとして、バロンがその場に伏せた。呼吸が落ち着くまで背を撫でる。もう一度立たせる理由はなかった。
璃子は再生画面を開き、拡大も補正もしなかった。ファイル名を「最後」に変えかけて消し、日付のまま保存した。
液晶の端には細い傷があり、そこだけ夕焼けが白く欠けて見えた。璃子はカメラのストラップを手首へ巻き直した。バロンの首輪も同じ赤だったが、今は色が抜けて桃色に近い。画面の中では、その二本だけがまだ鮮やかだった。
保存完了の表示が消えるまで、二つの影は壁から動かなかった。