一滴に畳まれた海魔
安曇理久が冒険者ギルドの魔力槽へ指を入れると、水面は鏡のように静かなままだった。
青く光れば魔術師、沸騰すれば上級、柱まで噴き上がれば宮廷推薦。理久の前に受けた少年は天井を濡らし、拍手を浴びている。
「魔力ゼロ。井戸汲みの仕事ですら、水に嫌われそうだ」
水術試験官が笑い、理久の登録票へ灰色の線を引いた。異世界へ落ちて最初に覚えた仕事が水汲みだった理久には、井戸まで奪われるような言葉だった。
そのとき、地下から鈍い衝撃が来た。
魔力槽の水が盛り上がり、巨大な瞳を形作る。王都の地下水路に封じられた海魔が、試験で流された魔力を餌に目覚めたのだ。水柱が天井を突き破り、腕ほど太い触手が受付を薙ぐ。登録を待つ子どもを庇った受付嬢が転び、出口は逆流した水で塞がれた。上級冒険者の水刃は吸収され、火炎は蒸気へ変わった。
理久は後ずさる人々の足元で、一滴の水を見つけた。
視界にだけ表示がある。
《水域折畳》
触れた一滴とつながる水を、すべてその一滴へ一度だけ畳み込む。
海魔は水そのものだ。地下水路、魔力槽、触手、天井から降る雨粒まで、全部がつながっている。選び方を誤れば、街の飲み水まで消す。理久は接続の境界を、海魔の意志が届く範囲だけに絞った。
「逃げろ!」と誰かが叫ぶ。
理久は逃げず、床へ膝をついた。指先で一滴に触れ、《水域折畳》を使う。
世界が、息を吸った。
荒れ狂っていた水が音もなく細くなる。触手は糸になり、巨眼は青い輪になり、地下から押し寄せる奔流まで一本の透明な線へ変わった。それらすべてが理久の指先へ集まり、最後には丸い一滴だけが残る。
彼はそれを、受付にあった空のインク瓶へ落とした。
瓶の中で、小さな海魔が爪ほどの触手を振る。蓋を閉めると、王都を揺らしていた地鳴りも止んだ。
水術試験官は灰色の線を引いた羽根ペンを落とした。二階から降りてきた水賢者は、瓶の前で片膝をつく。
「封印ではない。支配でもない。海そのものを、携帯したのか」
理久が振り返ると、濡れた受付にいた全員が、彼ではなく彼の手の中の小瓶へ道を譲っていた。