一票目の僕

鳴滝遥規は朝食のパンをかじりながら、区役所アプリに顔を映した。納税通知を見るにも、粗大ごみを申し込むにも、本人確認は一秒で済む。緑の輪が出たので、今日も自分は自分だった。

投票画面だけが開かなかった。

《投票済みです》

今日は、未認証者を保護施設へ移す条例の住民投票だった。遥規の弟・侑生は、事故で顔面を手術して以来、本人判定を通せずにいる。条例が成立すれば、来週には連れていかれる。

遥規は反対票を入れる約束をしていた。

履歴を開く。午前零時二分、賛成。添付された確認映像では、遥規がカメラに向かい、「私は本人です」と言っていた。寝間着まで、今着ているものと同じだった。

選挙の規則は一つ。最初に本人判定を通った票だけが有効で、二票目を送ろうとした者は成り済ましとして調査される。票の秘密を守るため、取り消しも上書きもできない。

遥規は選管窓口へ走った。ガラスの向こうの職員は、彼の顔と画面を見比べた。

「映像は合成です。俺は寝ていた」

「判定器は、合成ではないと判断しています」

「じゃあ今ここにいる俺を判定しろ」

卓上カメラが遥規を読み取った。赤い文字が出る。

《既存本人との表情連続性が不足》

「さっきアプリは通った!」

「投票時の本人が基準へ更新されたので」

偽物が一票を入れた瞬間から、偽物の癖が遥規の正式な癖になっていた。笑う角度、息継ぎ、視線の逃がし方。生身の遥規は、もう似ていない。

端末が震えた。侑生からだった。

『兄ちゃん、反対に入れた?』

窓口の外で警備員が近づく。遥規は答えようとしたが、アプリが通話を切った。

《本人性に疑義があるため、行政通信を停止しました》

開票速報が壁に映った。賛成と反対の差は、まだ一票だった。

職員が遥規へ拘束帯を差し出す。

「投票者本人への成り済まし容疑です」

その背後の画面で、午前零時の遥規が静かに笑った。遥規自身が一度もしたことのない、きれいな笑い方だった。

次の瞬間、速報の数字が動いた。《賛成多数、一票差で可決》。侑生の名前が保護対象者一覧へ追加され、遥規の反対票は、送信されなかった票としても残らなかった。