一音だけ足りない祝福
雨乞いの巫女に選ばれたティサナは、百年間、雲上の宮で眠ることになった。
地上へ戻る頃、恋人ヴェルクはもういない。
人は神殿へ同行できず、巫女が役目を拒めば、谷は三年で干上がる。
旅立ちの日、二人は〈言祝ぎの門〉へ立った。
門の下で交わした最後の言葉は、相手が復唱すると運命になる。
ティサナは、ヴェルクを待つ人にしたくなかった。
けれど、自分を忘れろと命じることもできなかった。
「私を忘れても、幸せでいて」
そう言った。
その瞬間、旅立ちの鐘が鳴った。
風が門を抜け、たった一音――〈も〉だけをさらっていった。
ヴェルクに届いたのは、
「私を忘れて、幸せでいて」
だった。
彼は泣きながらうなずいた。
「君を忘れて、幸せでいる」
復唱された言葉が白い光になり、二人のあいだへ降りた。
「違う!」
ティサナは叫んだ。
「忘れても、よ。忘れろじゃない!」
だが運命は、訂正を受けつけない。
ヴェルクの顔から、最初に彼女の好きな花の名が消えた。
次に、初めて会った川辺。
雨の日に貸した外套。
ティサナの声。
彼は目の前の女性を見て、戸惑った。
「あなたは、どなたですか」
ティサナは泣いた。
それでも名乗らなかった。
名を教えれば、彼は見知らぬ巫女のためにまた悲しむ。
「雨を呼びに行く者です」
「そうですか。どうか、ご無事で」
ヴェルクは礼をした。
恋人へではなく、谷を救う巫女へ向ける丁寧な礼だった。
雲の階段が伸びる。
ティサナは一段ずつ上った。
振り返ると、彼はもう祭りの人々の中へ戻っていた。
隣の老人を支え、泣いている子どもへ笑いかけている。
運命は命令どおり、彼から恋を奪い、幸せに生きられる余白を作った。
百年後、ティサナが地上へ戻ると、谷は緑に満ちていた。
ヴェルクの墓は、川を見下ろす丘にあった。
碑文にはこう刻まれていた。
〈よく笑い、多くを助け、穏やかに生涯を終えた〉
彼は幸せだったのだろう。
その幸福に自分の名が一度もなかったことを、ティサナは喜びながら悲しんだ。
墓前で、彼女はもう一度言った。
「私を忘れても、幸せでいて」
今度は一音も欠けなかった。
返す声はない。
けれど百年前に足りなかった〈も〉だけが、遅れて墓石の上へ落ちた雨粒のように光った。