七時に鳴らす
榊原初音が「旅枕時計舗」で選んだのは、掌ほどの旅行用目覚まし時計だった。
臙脂色の革ケースを開くと、内側から丸い文字盤が起き上がる。蓋を閉じれば薄い箱になり、鞄の端へ収まる。店主が巻き鍵を回すと、ぜんまいの擦れる音がした。
初音は大学を出てから五年、友人と二人で暮らしている。冷蔵庫の段も、洗濯の曜日も、風邪をひいたときに買うゼリーの味も決まっていた。安心できる家だった。
それでも、一人で住みたいと思うようになった。
朝、誰にも気を遣わず音楽を流したい。夜、話したくない日は黙っていたい。そんな理由で出ていくのは、友人を捨てるように感じられ、内見した部屋の申込書を三日間送れずにいた。返答期限は今夜だった。
友人はきっと傷つく。けれど黙ったまま同じ家にいるほど、いずれ冷蔵庫の音や廊下の足音まで嫌いになりそうだった。
「何時に合わせますか」
店主が聞いた。
初音は普段、友人の目覚ましで七時に起きる。自分のスマートフォンにもアラームはあるのに、鳴る前から隣室の音を待っている。
「七時で」
店主は短針を七へ、赤い目覚まし針も七へ重ねた。それから時計を一度鳴らした。甲高いベルが狭い店内に弾け、初音は肩をすくめた。店主はすぐ止めず、三秒だけ鳴らしてから背面のつまみを倒した。
時計を革ケースへ畳み、巻き鍵が動かないよう薄紙を一枚挟む。包装紙には包まず、持ち帰ってすぐ使える状態で紙袋へ入れた。
初音は会計の横で、不動産会社へ申込書を送った。続けて友人の画面を開く。
〈話したいことがある。来月、近くで一人暮らしを始めたい〉
打ってから、言い訳を足しかけた。嫌いになったわけではない、迷惑をかけたくない、ずっと友達でいたい。けれど全部消し、最後に〈明日の夜、ちゃんと話す〉だけを加えた。
送信すると、店主が紙袋の口を折った。封をするテープは貼らなかった。
帰宅すれば、まだ二人の部屋だ。明日の七時も隣の目覚ましが先に鳴るかもしれない。
それでも初音の鞄には、自分で巻き、自分で止める朝が一つ入っていた。