七枚に切る丸パン

早川史絵の部屋の前に、膨らまなかった丸パンが置かれていた。

透明な袋には母の字で、〈発酵、失敗。味はたぶん平気〉とある。持ち上げると、見た目よりずっと重かった。袋を開けても酵母の香りは弱く、ちぎった断面は詰まり、噛むたびに顎へ固さが返ってきた。

史絵は三週間前に会社を辞めた。

上司から届く深夜のメッセージと、会議室で肩へ置かれる手に耐えられなくなった。人事へ相談したが、「悪気はなかったと思う」「若い人は距離感に敏感だから」と言われた翌朝、退職届を出した。母には何も話していない。毎朝同じ時刻に部屋を出て、図書館や映画館で一日をつぶし、夕方に帰っていた。定期券は解約せず、母から電話が来る昼休みだけ、駅の雑踏を録音して背後で流したこともある。

母は勤続五年を祝って、来月、親戚を集めると言っている。娘が大手企業で働くことを、自分のことのように喜んでいた。史絵はその予定を断れず、仕事が忙しいふりを続けた。辞めた理由を話せば、母は怒るか、泣くか、会社へ電話をする。そのどれも受け止める力がなく、嘘のほうが母を守るのだと思うことにした。

台所でパンをまな板へ置いた。いつもなら半分に切り、残りは冷凍する。今日は包丁を七回入れた。月曜から日曜までのように、厚さの違う八枚になった。数え間違えたことに気づき、一枚をさらに半分へ切った。

史絵は月曜のつもりの一枚を食べた。固い生地はなかなか喉を通らず、何度も噛むうちに、隠してきた日数だけが無駄に長く思えた。

二枚目には手をつけなかった。代わりに、残りを曜日ごとに包むのをやめ、全部同じ袋へ戻した。明日も会社へ行くふりをするための朝食にはしない。

母とのメッセージ画面を開く。事情を説明する文章は書けなかった。

〈会社、辞めた〉

送信すると、すぐ既読がついた。返事は、〈パンも失敗した〉の一行だった。続いて、〈どっちも捨てなくていい〉と届く。

史絵は七日分に見立てたパンを、もう一度まな板へ出した。小さすぎる半片だけを口へ入れ、残りは曜日を考えず二つの袋に分けた。一つは自分の冷凍庫へ、もう一つは明日、母へ返すために。

固さは同じなのに、今度は水なしで飲み込めた。明日の朝は、会社へ向かう時刻に起きなくてもよかった。