三〇九号室の白い湯気
ホテルの三〇九号室へ戻った史緒を待っていたのは、白粥の載ったルームサービスのワゴンだった。彼女は披露宴の出張ヘアメイクを終えたばかりで、夕食を頼む余裕などなかった。
夜勤のフロント南雲は「手配済みです」と言い、厨房の笹生は電話口で「ご指定どおりです」と答えた。今日の花嫁、成瀬はもう別館のスイートへ移っている。頼みそうなのは、その三人だった。
ワゴンの伝票は「三〇六号室」の六だけが、青いペンで九に直されていた。粥には梅干しがなく、千切り生姜が多めに載っている。布ナプキンは、披露宴で成瀬が何度も練習していた白鳥の形だった。
史緒はスイートへ電話した。
「お粥、成瀬さんですね」
受話器の向こうで、新郎らしい笑い声が遠のいた。
成瀬は披露宴前、緊張で何も食べられず、三〇六号室に白粥を頼んでいた。だが史緒が最後まで髪を直し、自分の休憩を逃したことに気づいた。そこで注文を取り消さず、届け先だけ三〇九に変えてもらったのだ。梅が苦手で、生姜なら食べられるという話を、メイク中の雑談から覚えていた。
「追加の髪飾り、何度も変えてごめんなさい」
「仕事ですから」
「その言葉で甘えたのも、ごめんなさい。直接お礼を言うと、また『仕事です』で終わりそうだったから」
南雲が伝票を書き直し、笹生が冷めた粥を作り直した。二人が共犯めいて口をそろえた理由も、それで分かった。
ドレスの裾を踏まないよう走り回った一日が終わると、客室の静けさがかえって耳に痛かった。史緒は、祝う側の人間が空腹や疲れを見せるのは失礼だと思ってきた。だが成瀬もまた、人生で一番忙しい日に他人の顔色を見ていたのだ。仕事の境界を越えすぎず、それでも放っておかないために、料理の行き先だけを変えた。その不器用さが白い湯気に残っていた。
史緒はベッド脇に座り、匙で湯気をすくった。生姜の辛みが、空腹より先に身体を起こしてくれる。
画面に成瀬から短いメッセージが届いた。
――今度こそ、温かいうちにどうぞ。