三分の母

紗英は、母からの着信に出る前にキッチンタイマーを三分に合わせた。

午後九時十三分。画面には「お母さん」と出ている。毎晩ほぼ同じ時刻だった。

「もしもし」

『遅かったわね。今、どこ?』

「家」

『本当に? 外の音がするけど』

「換気扇」

『夕飯は? またコンビニじゃないでしょうね。あの会社、辞めるなら早いほうがいいってお父さんも――』

一分。

紗英は冷めかけた焼きそばを箸でほぐした。ソースの匂いが立つ。今日、上司に提出した異動希望のことを言おうかと思ったが、母の声はすでに結婚相談所の話へ移っていた。

『プロフィール写真、前髪を上げたほうがいいわ。あなたは言われないと何もしないから』

「写真は撮らない」

『また意地を張って。紗英ちゃんのために言ってるの』

二分。

タイマーの赤い数字が、残り一分を切った。いつもなら、ここから母の機嫌を損ねない言葉を探す。うん、考えておく。そうかもね。また今度。どれも会話を終わらせるふりをして、翌日の続きを予約する言葉だった。

「お母さん」

『なに?』

「これから電話は週に一回にする。日曜の夜だけ」

『どういうこと?』

「出ない日は、何度かけても出ない」

『誰かに何か吹き込まれたの?』

タイマーが鳴った。

乾いた電子音が、母の声に重なった。紗英は一度だけ深く息を吸う。

「三分たったから切るね」

『待ちなさい、まだ話は――』

「日曜に、三分だけ話す」

通話終了の赤い丸を押すと、部屋が急に広くなった。換気扇の低い音と、自分が麺をすする音だけが残った。

すぐに着信が来た。二度、三度。紗英はスマートフォンを伏せ、タイマーを洗った。母の声を止めるのに必要だったのは、説得ではなく、親指ひとつだった。

着信が途切れたあと、連絡先を開く。「お母さん」という表示を消し、母の姓名を入力した。家族をやめるためではない。母という役割だけで、いつでも自分の時間へ入ってこられないようにするためだった。

保存を押す。

日曜まで、あと四日。紗英は伸びた麺をもう一度温めず、そのまま食べた。冷たくても、自分で終わりを決めた夕食は、ちゃんと味がした。