三十二匹目の契約者
うちのアパートは、ペット厳禁である。
だから三〇二号室の遠巻英仁さんほど理想的な店子はいなかった。無口で、家賃は毎月きっちり。酒も煙草もやらず、友人も連れ込まない。
ただし妙な通販が多かった。向日葵の種を十キロ、木屑を二十袋、給水器を三十個。夜になると、床下から小さな車輪が一斉に回るような音がした。
「何か飼っています?」
私が尋ねると、遠巻さんは背筋を不自然なほど伸ばした。
「いいえ。当室に飼育者は存在しません」
答えが妙だったが、声は低く礼儀正しい。いつも大きめのコートを着ているのも、冷え性なのだろうと思った。
ある晩、三〇二号室から煙が出た。火事だと思い、合鍵で飛び込んだ。
「遠巻さん!」
居間の中央に、彼は立っていた。正確には、立ったまま左右へ揺れていた。足元から一匹のハムスターが飛び出し、続いて袖、襟、ズボンの裾からも次々に転がり出た。
コートが潰れた。
中には細い木枠と滑車が組まれ、三十一匹のハムスターが紐を引き、ペダルを踏み、人間の手足を動かしていた。胸元のスマートフォンが、聞き慣れた低い声を発する。
「緊急事態につき、外装を解除しました」
煙の正体は、回し車の発電機が焼けただけだった。
「遠巻さんは、どれ?」
三十二匹が一斉にこちらを見た。
「遠巻英仁は共同名義です」
先頭の一匹が画面を操作する。
「人間じゃないの?」
「契約書に、契約者が人間であることとの規定はありません」
「でも、ペットは禁止です」
「我々を飼育する者はいません。ゆえに我々はペットではなく、自立した賃借人です」
スマートフォンに、契約書の該当箇所が大写しになった。確かに穴がある。しかも三十二匹は家賃を滞納していない。
「それなら入居人数を一名と書いたのは?」
「遠巻英仁は一名です。構成員数を尋ねる欄はありませんでした」
私は大家歴三十年で初めて、ハムスターに契約論で負けた。
翌月、契約書へ「入居者は人間に限る」と追記した。すると三〇二号室から、内容証明が届いた。
〈既存契約への遡及適用には同意しません。なお、消防設備改善のため家賃減額を請求します〉
末尾には、三十二個の小さな肉球印が並んでいた。
以来、私は遠巻さんを見かけるたび挨拶する。
どの一匹に向かって頭を下げればいいのか、いまだに分からない。