三十五秒の隣人
朝七時四十二分になると、私の窓は彼女の窓へ近づいた。
床がかすかに揺れ、景色が止まる。硝子越しのすぐ向こうに、灰色のコートを着た女性が現れる。私たちに与えられる時間は、いつも三十五秒だった。
最初は目が合うだけだった。次の朝、彼女が曇った窓へ指で丸い顔を描いた。私は眼鏡を足した。彼女は笑い、すぐ遠ざかっていった。
それから私たちは、紙に言葉を書いて見せ合った。
〈おはよう〉
〈眠そう〉
〈そっちこそ〉
名前を尋ねると、彼女は〈杠葉咲季〉と書いた。私は〈椎場律人〉と返した。
会話は毎朝、途中で切れた。
〈好きな食べ物は〉
〈焼き餃子。律人さんは〉
〈私も。今度いっしょに〉
そこで窓が離れた。
翌朝、咲季は続きを待つ顔をしていた。私は大きく書いた。
〈日曜日、会いませんか〉
彼女は頷き、待ち合わせ場所を書こうとした。だが最後の一文字が見える前に、床が動いた。
その晩、時刻変更のお知らせが届いた。
翌朝から、彼女の窓は現れなくなった。七時四十二分、私の前には暗い壁しか止まらない。住所も電話番号も知らない。知っているのは、名前と、焼き餃子が好きなことだけだった。
私は一週間、同じ時刻に窓辺で待った。
八日目、窓の向こうへ行くことにした。二本の路線が次に停まる乗換駅で降り、階段を駆け上がって反対側へ渡る。発車ベルが鳴るなか、灰色のコートを捜した。
「律人さん?」
背後から声がした。
振り返ると、咲季が息を切らして立っていた。手には、あの日の続きが書かれた紙。
〈日曜日、東口の時計台で〉
「部屋を訪ねようにも、どこか分からなくて」
彼女が笑う。
「私たち、部屋で会っていませんからね」
三か月間、向かい合っていたのはアパートの窓ではなかった。
複々線の途中で、上りと下りの電車が信号待ちのため並ぶ。私たちは別々の車両の窓際に座る、三十五秒だけの隣人だった。
「待ち合わせ、今日でもいいですか」
私が尋ねると、咲季は紙を裏返した。
〈餃子なら〉
二本の電車が左右へ走り去る。
窓のない場所で見る彼女の笑顔は、思っていたよりずっと近かった。