三十秒早い解禁

香坂藍那が広報会社で引き継いだ最初の案件は、まだ世の中に存在してはいけない新製品だった。

発表は午前九時ちょうど。十五社の媒体、公式サイト、動画広告を同時に公開する。産休に入る牧瀬朝葉は、その時刻を守るため、毎回夜明け前から自分のスマートフォンで全画面を監視してきたという。

最終確認の八時五十六分、藍那のプレビュー画面に〈公開まで三十秒〉と表示された。

「九時まで四分あるのに」

朝葉は一瞬黙り、「広告サーバーだけ海外時間だから、表示の癖かも」と言った。上司は会議室の時計を見て、予定通り進めるよう促した。発表が遅れれば、取引先から違約金を求められる。

藍那は公開ボタンへ触れず、配信予約の履歴を開いた。国内サイトは九時、動画は零時、広告だけは世界標準時で登録され、そのうえ配信量を均す機能が三十秒前から動く設定になっている。つまり、早い地域では八時五十九分三十秒に広告が出る。

彼女は全媒体を一度保留にし、動画担当へ「遅らせた人を探さなくていいです。時刻の基準をそろえます」と告げた。広告サーバーを九時零分十秒にずらし、公式サイトを基準に各画面が開く順番へ変更する。公開は十秒遅れたが、情報は一社からも漏れなかった。

公開直後、社内チャットには「十秒遅れ」の文字が並んだ。藍那は広告ごとの実時刻を一覧にし、遅れではなく同時公開を守った結果だと説明した。朝葉が毎回スクリーンショットを撮っていた作業も、サーバーから自動で証跡を残すよう設定した。

取引先の担当者は安堵し、次の春商品の相談まで置いていった。上司は藍那へ、朝葉が使っていた監視用チャットの管理権限を渡した。

「これからは君が、朝葉さんみたいに全部見てくれれば」

チャットには、午前二時の確認、休日の差し替え、私物端末への通知が何年分も並んでいた。朝葉は苦笑した。

「消していいもの、たぶん多いよ」

藍那は管理権限を受け取り、夜間通知を止めた。代わりに、基準時刻と承認者を自動照合するチェックを追加し、春商品の招待へ〈平日九時から十八時・二名承認制〉と返信した。

その条件のまま、〈参加〉を押した。