三百万リラ
名簿には、珠洲森ウタ、八十七歳、独居とあった。
俺は声を少し高くして電話した。
「ばあちゃん、俺だよ」
「あら、風邪をひいたの?」
「そうなんだ。よく分かったね」
勝手に話を合わせてくれた。楽な仕事だと思った。
会社の金をなくした、今日中に三百万円必要だ、と台本どおりに話す。ウタは何度も聞き返した。
「会社って、蒲鉾の?」
「違うよ」
「三百万リラ?」
「円だよ、円」
「まあ大変。お茶をいれましょう」
途中で声が少し変わった。しわがれ声になったり、妙に澄んだり、語尾に東北訛りが混じったりする。俺は古い補聴器のせいだと思った。
ウタは振り込み方が分からないと言い、現金なら渡せると言った。ただし、最近は物騒だから、孫本人にしか渡さないという。
「市民会館の手芸室にいるの。迎えに来て」
「俺は仕事で行けないんだ」
「では、お金は要らないのね」
「行く。今から行くよ」
三百万円を他の受け子に任せるのが惜しくなり、俺は帽子とマスクを着けて市民会館へ向かった。
手芸室の扉を開けると、中央の机に分厚い封筒が置かれていた。
「ばあちゃん?」
カーテンの向こうから、電話と同じ震える声がした。
「来たの?」
俺が封筒へ手を伸ばした瞬間、カーテンが開いた。
中には老人が十二人いた。女が七人、男が五人。マイク、音響卓、台本、湯飲み。壁際には警察官が二人。
「会社って、蒲鉾の?」
一番小柄な女が、最初の声で言った。
「三百万リラ?」
白髭の男が、さっきの澄んだ声を出した。
「まあ大変。お茶をいれましょう」
車椅子の女性が東北訛りで続ける。全員が拍手した。
彼らは地域のラジオドラマ同好会だった。詐欺電話を受けると回線を会館へ転送し、一人が疲れるたび演者を交代する。俺が「補聴器の雑音」だと思ったのは、マイクを渡す音だったらしい。
「珠洲森ウタは?」
「架空の会員です」と警察官が答えた。「名簿は、こちらが流した偽物ですよ」
手錠をかけられる俺に、十二人の「祖母」がそろって頭を下げた。
「長電話にお付き合いいただき、ありがとうございました」
最後に、元女優だという白髪の女性が耳元で囁いた。
「会話相手が一人だなんて、誰が言いました?」
その日いちばん騙されていたのは、電話をかけた俺だった。