三軒先への配達

水科伊織は、引っ越して二か月、同じ階の住人の顔を一人も知らなかった。廊下で気配がすれば鍵を開ける手を止め、エレベーターに誰かいれば次を待つ。静かな暮らしが欲しかったはずなのに、部屋へ帰るたび、自分まで壁紙になったような気がした。

前の部屋では、別れた恋人と暮らしていた。退去の日に「次は一人で平気な場所を」と決めた。その決意を守るうち、宅配便にも置き配を指定し、休日は声を出さないまま終わるようになった。平気でいることと、誰にも見つからないことの区別が、最近つかない。

残業帰り、四階の廊下で白い配達ロボットが立ち往生していた。車輪の前に、誰かが落とした薄い雑誌が挟まっている。

伊織が雑誌を拾うと、ロボットの画面に目が二つ現れた。

「障害物、解消。ありがとうございます」

「どういたしまして」

通り過ぎようとすると、画面の目が細くなった。

「質問です。いちばん近い宛先ほど、遠いですか」

意味を測りかねているうちに、上部の扉が開いた。小さな紙袋が一つ入っている。

「四〇三号室まで、三歩だけ代理配達してください」

伊織の部屋は四〇六号室。四〇三の扉までは、実際には十三歩あった。断る理由を考えるより先に、ロボットは充電切れの音を出して眠ってしまった。

紙袋は温かく、パンの匂いがした。袋には〈誕生日おめでとう〉という小さなシールが貼られている。伊織のものではない温度なのに、両手で持つと、廊下の白さが少しだけやわらいだ。四〇三の前で、伊織はインターホンを押すか、袋だけ置くか迷った。置き配指定の印はない。中から子どもの笑い声がして、それも少し怖かった。

呼び鈴を押す。出てきたのは、腕まくりをした若い女性だった。伊織を見ると驚き、すぐ紙袋に気づいた。

「配達の方?」

「いえ、その、ロボットが止まっていて」

説明だけして帰ろうとしたとき、女性が「助かりました」と笑った。廊下の灯りは白く、親しくなる約束など何もない。それでも、伊織は自分の扉へ逃げる代わりに、紙袋を渡した手を下ろさずにいた。

「四〇六の、水科です」

名乗る声は小さかったが、閉じた廊下を三軒先まで、きちんと届いた。