三階までの冷蔵庫
西園弦は、父の引っ越しを二時間で終えるつもりだった。清市が営んでいた釣具店を畳み、店の二階から、駅裏の古いアパートへ移る。それだけだ。
問題は、冷蔵庫だった。
「階段、狭すぎる」
「昔の職人は物を小さく作った」
「建物の話だろ」
「持ち方が悪いんだ」
三階まで外階段。清市が下、弦が上を持った。二段目で冷蔵庫の角が手すりに当たり、五段目で父の左手が滑った。弦は肩で受け止めた。金属の角が鎖骨に食い込む。
「手、動かないなら言えよ」
「動く」
「リハビリ、さぼってるだろ」
「お前に関係ない」
「だから誰も来なくなるんだよ」
言葉が階段の吹き抜けに落ちた。清市は何も返さず、右手だけで持ち直した。
父が脳梗塞で倒れたと知ったのは退院後だった。弦が東京の専門学校へ行くと言った夜、「好きにしろ」と吐き捨てた男は、本当にそれきり連絡しなかった。弦も同じだけ意地を張った。
「いったん下ろす」
「上げたものを下ろすな」
「人生訓みたいに言うな。休むぞ」
踊り場で冷蔵庫を立て、二人で息を整えた。清市の左指は、握ろうとして半分しか曲がらない。弦はタオルを取っ手に巻き、腕を通せる輪を作った。
「次、俺が下」
「上が重い」
「知ってる。配送で食ってるから」
初めて父が口を閉じた。
部屋へ運び込む頃には、冷蔵庫の側面に長い傷がついていた。弦は脚の高さを調整し、傾きを直し、コンセントを差した。清市はコンビニ袋から水を一本出して扉に入れた。
「冷えるまで四時間」
「説明書くらい読める」
「読まないから言ってる」
弦が帰ろうとすると、外はもう終電後の静けさだった。清市は押し入れを開けた。中には布団が二組あり、右側だけ何も載っていない。
「店から持ってきた荷物、そこへ入れろ」
「明日持って帰る」
「好きにしろ」
昔と同じ言葉だった。けれど清市は、弦のバッグを玄関ではなく、空けておいた押し入れの右側へ置いた。