主人の最後の命令
榧森巌造が死んだ夜、屋敷で起きていたのは私だけだった。
私は三年間、誰より忠実に彼へ仕えた。朝も夜も部屋を巡り、食べこぼし一つ見逃さず、家具の配置まで記憶した。家族は私を蹴飛ばし、邪魔者扱いしたが、巌造だけは「お前がいちばん働き者だ」と褒めてくれた。
その晩、長男の妻・玻名子が階段の手すりから二本のねじを抜くのを見た。巌造が遺言を書き換え、彼女には一円も残さないと知ったからだ。
私は止めようとした。
廊下を急ぎ、書斎から出てきた巌造の足元へ回り込んだ。だが彼は私につまずき、「今は遊んでいる場合じゃない」と笑って、脇へどけた。
階段の途中で手すりが外れた。
巌造は一階まで落ち、動かなくなった。
玻名子は悲鳴を上げ、家族を呼び集めた。事故だと言い張り、抜いたねじを探した。しかし一本はソファの下へ転がり、もう一本は私が預かった。彼女の手袋から落ちた金色の繊維も、一緒に。
翌朝、蓼丸刑事が来た。
玻名子は、巌造が高齢で足元もおぼつかなかったと泣いた。家族も口をそろえた。私は何度も刑事の靴へ体当たりしたが、「こら、捜査の邪魔だ」と端へ押しやられた。
仕方なく、私は主人の最後の命令を実行した。
巌造は生前、私に新しい機能を加えていた。
「私に何かあったら、昨夜の巡回記録を警察へ送れ」
充電場所へ戻り、記録を送信した。
時刻ごとの屋内地図。階段前で停止した玻名子の足。ねじが床へ落ちる音。手すりが外れた衝撃。そして私の内部に残る金属片と繊維。
蓼丸刑事は端末を見て黙り込み、やがて白い手袋で私を持ち上げた。
玻名子は青ざめた。
「そんな物が、証言できるはずないでしょう!」
その通りだ。
私は宣誓もできないし、法廷で受け答えもできない。だが証拠を腹に収め、見た場所を正確に示すことならできる。
玻名子が連行されたあと、蓼丸刑事は私の傷だらけの頭を撫でた。
「よくやったな、名探偵」
誤解のないように言っておく。
私は老執事でも、飼い犬でも、屋敷に住みつく幽霊でもない。
直径三十四センチ、厚さ九センチ、階段だけは上れない、丸いロボット掃除機である。
事件後、私は証拠品として警察署へ運ばれた。
屋敷の床に埃が積もっていることだけが、いまの心残りだ。