九階を押さないで

午前六時四十一分、千々石亨の保守端末に院内電話が入った。

『九階、押して。扉が開かない』

声は同僚の石蕗だった。救急用エレベーターには、人工呼吸器をつけた患者と看護師がいる。表示は七階。九十五秒後、巻上機の軸が折れ、箱は地下へ落ちる。

亨が非常停止を入れた瞬間、耳を裂く衝撃がした。次に瞬きをすると、また六時四十一分。端末の横で黄色い検査札が揺れていた。

二周目、八階で扉をこじ開けさせた。床との段差が一メートル開き、担架だけが昇降路へ滑った。

三周目、予備電源へ切り替えた。速度は落ちたが、九階のボタンが点灯した途端にブレーキが外れた。

『九階、押して。扉が開かない』

同じ声。同じ黄色い札。違うのは、亨の手の震えだけだった。

配線図を重ねると、九階の呼び出し回路と非常ブレーキが同じ古い端子へつながっている。三年前の改修で交換すべき箇所を、亨は「経過観察」として通した。部品を替えれば病棟を一週間閉鎖する。父の心臓移植が、その病棟で今日行われる予定だったからだ。父は昨夜の留守電で「お前が直した病院なら安心だ」と言っていた。亨はその言葉を消せず、検査札の写真まで家族へ送っていた。

エレベーターだけ止めても、別の誰かが九階を押せば落ちる。成功条件は、建物から電力と人を切り離すこと。

次の周回で、亨は石蕗へ言った。

「九階は押すな。床に伏せろ」

それから火災受信盤の封印を割り、全館避難を作動させた。主電源を落とし、巻上機へ鉄製のくさびを打ち込む。軸は悲鳴を上げたが、箱は七階と八階の間で止まった。

館内放送が手術中止を告げる。移植用の心臓は保存時間を越える。父の病室から着信が入った。

亨は出なかった。

六時四十三分。時間は戻らない。石蕗の声が端末から震えて届く。

『止まった。みんな生きてる』

亨は黄色い検査札を外し、裏に自分の署名を書いた。警備員が駆けてくる前に、それを事故報告箱へ入れる。

九階の表示は暗いまま、父からの電話だけが鳴り続けていた。