乾かないパーカー
コインランドリーの乾燥終了まで、残り十分。
公平は回転するドラムを見ながら、膝の上の灰色のパーカーを畳み直した。璃子が大学時代から何度も借りた服だ。袖口には薄い絵の具が残り、洗っても落ちなかった。
「それ、まだ持ってたんだ」
「返せって言ったの、そっちだろ」
「半年前にね」
公平は、璃子がそれを着て台所に立っていた朝を覚えていた。袖が長すぎて指先が隠れ、コーヒーをこぼすたびに叱った。今は洗剤の匂いしかしない。
璃子は向かいの椅子に座り、足元のスーツケースを倒れないように押さえた。今夜の便で福岡へ行く。転職先も部屋も決まっていて、公平は見送りではなく、借りた物の精算に呼ばれただけだった。
公平は機種変更したばかりの端末を開いた。古いデータの復元が終わり、メッセージアプリに未送信の下書きが一件現れる。
〈返さなくていい。俺がいない夜も、それを着て寝ればいい〉
作成日は、璃子がパーカーを玄関に置いて出ていった夜だった。
「何、それ」
公平は無言で画面を向けた。璃子の目が一行を往復する。
あの頃、璃子は眠れないと言って、いつもこの服を着ていた。公平は照れ隠しに「伸びるから返せ」と何度も言った。璃子は笑っていたが、最後の日、本当に洗って返した。
「送るつもりだった?」
「送ったと思ってた。酔ってたから」
「届いてない」
「今、分かった」
送信履歴を何度探しても、その一行はなかった。代わりに残っているのは、公平が翌朝送った〈いつ取りに来る?〉だけだった。璃子には、それが追い出す言葉に見えたのだ。
乾燥機が低く揺れ、残り六分になる。
璃子はパーカーを受け取り、胸元に引き寄せた。昔なら、その仕草だけで抱きしめられた。今はスーツケースの取っ手が二人の間に立っている。
「これが来てたら、戻ったかもしれない」
「じゃあ、今は」
「今は、戻る場所を作っちゃった」
公平は彼女の左手を見た。指輪はなかった。それでも、その言葉のほうが確かな鍵だった。
「送っていい?」
「下書きのままでいて。今の私に返事させないで」
終了音が鳴る。璃子は立ち上がり、パーカーをスーツケースの一番上にしまった。ファスナーを閉める前に一度だけ、袖口の絵の具を指でなぞる。
公平は未送信の一行を削除した。
璃子は灰色の服を連れて、雨の空港行きバスへ乗った。