乾燥機が止まるまで
午前二時二十分、稲見朔太は針生柚季からの電話で起こされた。
「青いパーカー、まだ要る?」
半年ぶりの声だった。朔太が貸したままのパーカーは、駅前のコインランドリーにあるという。乾燥機が止まるまで、あと十分。
「捨てていい」
「ポケットに紙が入ってた。たぶん、見たほうがいい」
朔太は上着だけ羽織り、階段を駆け下りた。ランドリーは同じ通りの角にある。電話を耳に当てたまま走る。
二人が別れたのは、同棲する部屋を見に行った翌週だった。柚季は〈あの部屋、やめよう〉と言い、朔太は理由を聞かなかった。残業続きの自分との生活に嫌気が差したのだと思った。
「何の紙?」
「賃貸の申込金の領収書。名義、二人になってる」
「払ったのか」
「半分だけ。残りは朔太が出すって、不動産屋さんから聞いてた」
朔太は走る足を緩めた。残業は、その残りを用意するためだった。だが振込日前日、店から〈申込みは取り下げられました〉と連絡が来た。柚季が一人で断ったのだと信じていた。
「俺、現金を用意してた」
「じゃあ、どうして不動産屋に断ったの」
「断ってない」
電話の向こうで硬貨の落ちる音がした。柚季が乾燥機の上に置かれた封筒を開く。中には当時の申込書の写しがあり、赤字で〈保証人承認得られず自動取消〉とあった。
保証人は柚季の父だった。朔太がフリーランスであることを理由に、二人には知らせず拒否していた。
「父は、私が断ったって言った」
「店は、君から取り下げたって」
誰かの善意らしい嘘を、二人とも相手の選択だと思った。
ランドリーが見えた。ガラス越しに、柚季が青いパーカーを抱えて立っている。朔太が手を上げると、彼女も気づいた。だが同時に、店の前へ空港行きの深夜バスが滑り込んだ。
「今日、出るのか」
「朝から新しい会社」
「待ってくれって言ったら?」
柚季は泣きそうな顔で笑った。
「三か月前なら、待った」
乾燥機が止まり、店内の回転音が消えた。柚季はパーカーを七番ロッカーへ押し込み、暗証番号を電話で告げてバスへ乗った。
朔太が扉を開けたとき、残っていたのは温かな布と、二人の名が並ぶ期限切れの領収書だけだった。彼は番号を崩し、ロッカーの扉を閉めた。