二つの国旗で滑る
【世界氷舞選手権・エキシビション実況】
――七年間ペアを組んだ八束夕凪とテオ・マルシェク、今夜が最後の演技です。
二人はジュニア時代から恋人同士でもあった。
しかし世界選手権へ出るには、ペアが同じ国籍でなければならない。
日本連盟はテオに帰化を勧めた。
彼の母国ヴェルダは二重国籍を認めず、手続きには国籍離脱が必要だった。
夕凪もヴェルダへの帰化を考えた。
だが彼女の祖母は、戦時中に故郷から追われても日本国籍を手放さず、家族の記録を守った人だった。
リンク中央で、二人は額を寄せる。
音楽は、初めて組んだ日に選んだ古いワルツだ。
――テオ選手は来季から、ヴェルダ代表の新パートナーと。
――八束選手も、日本人選手とのペア結成が発表されています。
最後のリフトは、七年間で最も高かった。
夕凪が氷へ降りると、テオは予定にない一周を加えた。手を離せない子どものように、二人はゆっくり滑った。
演技後の取材で、記者が訊いた。
「愛しているなら、どちらかが国籍を変える道もあったのでは?」
テオは日本語で答えた。
「国籍はユニフォームの色だけではありません。父の墓と、母の言葉と、僕が帰る家の名前です」
夕凪も続けた。
「私にとっても同じです。どちらかが大切なものを捨てて成立するペアなら、氷の上で相手の手を信じられなくなると思いました」
「では、恋人としても別れるのですか」
二人は一度だけ顔を見合わせた。
「新しいパートナーに、半分の心で向き合いたくないので」
夕凪が言うと、テオは笑った。
「彼女は最後まで、競技者です」
表彰台ではなく、出口の暗い通路で、二人は最後に抱き合った。
周囲には別々の国のスタッフが待っていた。
「次に会うときは敵だね」
「転ばないで」
「そっちこそ」
リンクへ戻る扉が閉まる。
会場には二本の国旗が掲げられ、別々の国歌が流れた。
二人の滑りだけが、どちらの国にも分けられない一つの軌跡として、氷の上に薄く残っていた。