二つの靴べら
帆夏は、玄関に靴を出しっぱなしにされると息が詰まる。妹の茜は、明日も履く靴をしまう意味が分からない。六畳二間の部屋で暮らすには、互いの正しさが大きすぎた。
月曜の朝、帆夏のパンプスの中に茜の靴べらが入っていた。黄色いプラスチックの、駅前で配っていた安物だ。
「勝手に入れないで」
「姉ちゃんの靴、かかと潰れてた」
「見ないで」
「玄関にあれば見るでしょ」
言い返そうとしたとき、茜のスマホが鳴った。祖母が転んだ、と叔母からの連絡だった。病院には行った、命に別状はない。でも、家の中の段差をどうにかしてほしい。帆夏はすぐホームセンターの場所を検索した。茜は休みを取るか迷っていた。
「仕事、行きなよ」
帆夏が言うと、茜は眉を寄せた。
「そういうとこ、冷たい」
「行かなくていいって意味じゃない。遅刻の連絡は先にしなって意味」
「私は姉ちゃんみたいに順番で心配できない」
分かり合えない言葉が、玄関の空気を固くした。帆夏は黙って、自分のパンプスから靴べらを抜いた。茜のスニーカーの横にもう一本、金属の靴べらを置く。実家から持ってきた、父のものだった。
「二本あれば、祖母ちゃんの家にも一本置ける」
茜がそれを見て、スマホを耳に当てた。遅れます、私用です。声は震えていたけれど、切らなかった。
ホームセンターで、二人は滑り止めテープを同じかごに入れた。帆夏はサイズを測り、茜は祖母の好きな柄のマットを選んだ。どちらのやり方が正しいかは決まらなかった。
夜、祖母の家の玄関に、二つの靴べらを並べた。帆夏が右を、茜が左を壁にかけた。帰り際、茜は自分のスニーカーをそろえた。帆夏は、その隣にパンプスを出したままにした。
帰りの電車で、帆夏は叔母に手すり工事の見積もりを送った。茜は祖母に、マットの柄を写真で見せた。祖母からは『二人で来たの』とだけ返ってきた。帆夏は「うん」と打ち、茜も横から同じ画面を見て頷いた。
翌週、祖母から電話があり、「靴が履きやすい」とだけ言われた。褒め言葉ではなかったが、二人はそれを十分な返事として聞いた。