二階席までの青い傘
古い映画館の最終上映が終わるころ、綿貫史緒の紺色の傘が、えんじ色の傘に替わっていた。
木の持ち手が曲がった大きな傘で、館内に残っていた誰のものとも思えない。傘立てへ近づいたのは、映写担当の樽見圭、常連客の岡地芳江、清掃の福森匡の三人だった。
岡地は二階席で昔の恋愛映画を観ていた。福森はロビーを掃除し、樽見は映写室から降りてきていないと言う。
えんじ色の傘のカバーには、今日の半券が一枚入っていた。座席番号は二階の端。留め具にはキャラメル味のポップコーンが一粒くっつき、片側の布だけが濡れている。
史緒はロビーのガラス越しに雨を見た。岡地はいつもキャラメルポップコーンを買い、二階の端へ座る。えんじ色の傘は彼女のものだ。ならば岡地が紺色を取り違えたのだろう。
けれど片側だけ濡れているのは、誰かが相合い傘をした印だ。
史緒が裏口を開けると、樽見が岡地をバス停まで送って戻るところだった。自分は肩まで濡れ、手には史緒の紺色の傘を持っている。
「岡地さん、途中で気づいたんです」
樽見は息を整えた。
「でも戻ったらバスに間に合わない。だから俺が追って、傘を交換した」
「それなら一言、連絡を」
「上映中だったし、あなたなら岡地さんを待たせると思ったから」
史緒は否定できなかった。先月、客の少ない二階席を閉める案が出たとき、樽見は効率を理由に賛成した。史緒は「一人でも、あの席を選ぶ人がいる」と反対し、二人はそれきり必要な話しかしなくなった。
岡地は今日、亡くなった夫と初めて観た映画を、同じ席で一人で観た。上映後、史緒へ「二階を残してくれてありがとう」と伝えるつもりだったのに、傘を間違えた恥ずかしさで言えなかったらしい。
樽見は紺色の傘を差し出した。
「二階席、残す申請を出した。君に言う前に、判をもらいたかった」
えんじ色の傘は、明日、岡地が取りに来る。史緒は売店に残ったキャラメルポップコーンを紙コップへ半分入れ、樽見へ渡した。
「肩の濡れた分です」
「半分しかない」
「残りは二階席の維持費です」
史緒は一粒を噛んだ。静かなロビーに、ぱり、と小さな音が響いた。