二駅先の青鉛筆

 宇佐見環が古書喫茶「岬」で見つけた旅行案内は、二十年前の地方鉄道を特集していた。

 廃止された駅、移転した温泉、もう名前の変わった食堂。情報としては役に立たない。それでも前の持ち主が青鉛筆で引いた線は、妙に生きていた。始発駅から海辺まで、各駅の横に日付と短い感想がある。

「雨。売店だけ見た」

「坂が思ったより長い」

「ここで連れが帰った」

 その次の駅から筆跡が少し大きくなり、最後の頁には「一人になってから景色を覚えている」とあった。

 環は明朝、同じ海沿いへ向かう予定だった。大学時代の友人と二泊するはずが、昼に「彼氏と揉めていて行けない」と連絡が来た。宿は一名へ変更できる。切符もそのまま使える。けれど一人旅を楽しみにしていたと思われるのが嫌で、キャンセル画面を開いていた。

 本当は、誰に思われるのかも分からない。友人は謝ることに忙しく、会社の同僚は環の休日など気にしていない。それでも、二人用に選んだ旅を一人で続けることが、取り残された証明のように感じられた。

 閉店時刻が近づくと、店主は窓のブラインドを上げた。外には、店の前を通る終電ひとつ前の電車が見えた。二両だけの車内に、乗客はまばらだった。

 環が旅行案内を会計へ持っていくと、店主は路線図の折り込みを広げた。切れかけた綴じ目へ細い補修テープを貼り、青い線が途中で途切れないように、指で空気を抜く。包装する前には、環が開いていた頁へレシートを挟んだ。印字された時刻は、明日の始発に間に合う時間だった。

 環は友人へ「大丈夫。今回は一人で行ってくる」と送った。強がりに見えない絵文字を探しかけ、やめた。宿泊人数を一名へ変更し、キャンセル画面を閉じる。一人分になった宿代は少し高くなった。環は追加料金を見て一度息を吐き、それでも確定を押した。安く済むことと、行きたいことは同じではなかった。

 店を出ると、線路の向こうに海は見えなかった。ただ、電車の窓が二駅先まで続く小さな灯りの列になっていた。

 環は案内書を鞄へしまわず、青鉛筆の線がある頁を開いたまま、駅へ向かった。