人物データを転送します
葛西雛乃が五年ぶりに機種変更したのは、古いスマートフォンの電池が膨らみ始めたからだった。
古い端末には、二年前に事故で亡くなった恋人、土師遼生の最後の留守番電話が残っている。
『着いたら連絡する』
結局、彼は着かなかった。
雛乃はその十五秒を消せず、何度も聞き返していた。
新しい端末へデータを移すと、進行表示が九十九%で止まった。
〈未分類データ:人物一名〉
〈不足した情報を補完して転送しますか〉
雛乃は音声を鮮明にできる機能だと思い、「続ける」を選んだ。
翌朝、新しいスマートフォンに遼生からメッセージが届いた。
〈着いたよ〉
悪質ないたずらだと思った。だが文章の癖も、句読点の少なさも本人そのものだった。次の日には声で電話をかけてきた。週末には、二人で行くはずだった店の前から写真を送ってきた。
復元率が上がるたび、雛乃の記憶が一つずつ曖昧になった。
初めて会った駅。
彼の苦手な食べ物。
笑うと片方だけできた頬のしわ。
新しい端末へ移った情報は、古い端末から消えただけではない。雛乃の中からもなくなっていた。
〈人物データ復元率 九十七%〉
〈残り:死亡の記憶、喪失感、愛情〉
雛乃は転送を中止した。
すると新しい端末から遼生の声がした。
『あと少しだよ。君が僕を好きだったことを移せば、全部戻れる』
「戻るって、どこへ」
『君のいるところへ』
電源を切っても声は止まらなかった。雛乃は古い端末だけを握り、眠りについた。
朝、台所から包丁の音がした。
見知らぬ男が朝食を作っている。
「おはよう、雛乃」
男は懐かしそうに笑った。
雛乃には、その顔が誰なのか分からなかった。
新しいスマートフォンには、二人の写真、数年分の会話、共有予定、家の鍵がそろっていた。復元率は百%。男は雛乃の好物も、寝癖も、泣くと黙ることも知っている。
古い端末が引き出しの中で鳴った。
発信者は「葛西雛乃」。
通話に出ると、自分の声が泣きながら叫んだ。
『その人は死んでる。忘れないで。私はあの人を――』
男がそっと端末を取り上げた。
「昔のデータだよ。もう必要ない」
新しい端末に確認画面が出た。
〈転送元を初期化しますか〉
男は「はい」を押した。
古い端末から、雛乃の泣き声も、最後の十五秒も消えた。
雛乃は知らない男と二人、静かな台所に立っていた。
なぜか胸だけが、何かを失った形にへこんでいた。