代わらない夕方

鷺沼咲良は、同僚から「助かる」と言われるたび、少しだけ元気になったふりができた。

駅前のベーカリーで働いて三年目。急な欠勤が出れば早番から遅番まで残り、新人が失敗すれば自分の休憩を削って教えた。断らない人として覚えられることは、頼られない人になるより安全だった。

けれど冬の終わり頃から、パンの焼ける匂いが重くなった。以前は好きだったバターの香りで胸焼けがする。帰宅して制服を脱いでも、耳の奥でオーブンの終了音が鳴っていた。

火曜の午後、咲良は珍しく定時で上がる予定だった。冷蔵庫に何もないので、帰りに鍋の材料を買う。それだけを朝から楽しみにしていた。

十五時四十分、休憩中の後輩からメッセージが届く。

《すみません、今日の遅番、代わってもらえませんか。ちょっと外せない用事ができて》

咲良は反射で《大丈夫だよ》と打った。送信ボタンの上で指が止まる。

外せない用事の中身は聞かなかった。自分の鍋は、誰にも説明できないほど小さい予定だった。家に帰り、白菜を切り、湯気の前に座る。それを理由と呼んでいいのか分からない。

バックヤードの鏡には、粉のついた頬と、笑っていない口元が映っていた。咲良はメッセージを消した。

《今日は代われません。店長にも相談してみてください》

送った直後、胃のあたりが冷たくなった。困らせた。冷たい先輩だと思われる。今からでも取り消して、やっぱり大丈夫と送れば間に合う。

そのとき、売り場からトングの重なる音がした。咲良はスマートフォンをエプロンのポケットへ入れた。返事が来ても、すぐには見なかった。

退勤時刻、店長は別店舗から応援を呼べたとだけ伝えた。後輩は「了解しました」と小さく頭を下げた。怒っているかどうか、咲良には読めなかった。読もうとするのもやめた。

スーパーでは、白菜が半分だけ売られていた。鶏団子と豆腐も籠へ入れた。レジに並ぶ頃、肩から力が抜けたわけではない。罪悪感は、買い物袋と一緒についてきた。

家で鍋のふたを開けると、白い湯気が眼鏡を曇らせた。

咲良は見えないまま椅子へ座った。誰かの代わりにならなかった夕方が、湯気の向こうにちゃんと残っていた。